原子爆弾が落ちたとき口田では
あの日〔昭和20年(1945年)8月6日〕は、雲一つない良く晴れた
大変暑い日でした、国民学校は夏休みでしたが軍馬の餌となる干し草をつく
るため、全校生徒が学校に集まる「草刈りの日」の登校日でした。
飛行機が南の方向に飛び去り空襲警報も解除されたため、私たちは大きな
竹のかごを背中に、全員が校庭に集まり朝礼の始まるのを待っていた。
青く澄み渡った空には、白い落下傘が浮かんでいて皆が見ていたとき、突
然するどい閃光が!しばらくして「ドーン」と大きな音がしてお腹が押しつ
ぶされるような感じがした。
広島市に世界で初めて「原子爆弾」が投下された瞬間です、私たちは爆心
地から約10qも離れた場所でこの原子爆弾が投下された瞬間を見たのであ
ります。
◇ 広島に投下された原子爆弾について
原子爆弾は、ウランやプルトニュームが核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したもので、通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力をもった爆弾です。さらに、核分裂の際に発生するガンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与えます。
広島に投下された原子爆弾は、長さが約3メートル、重さ約4トン、細長い形をしていたのでリトルボーイ(少年)と呼ばれていた。
この爆弾には、10〜30キログラムのウラン235が詰められていて、その内の1キログラムにも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬1万5千トン分にも相当するエネルギーを放出しました。
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放出されたエネルギーは?
広島に投下された原子爆弾が爆発したときのエネルギーは、爆風(衝撃
波)が50%、熱線が35%でこれらが複雑にからみあって大きな被害を
引き起こした。
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強烈な熱線と爆風は、爆心地から2キロメートル以内にあったほとんどの建物を破壊し、焼きつくし、爆発により放出された放射線による急性障害が一応おさまったとされる昭和20年(1945年)12月までに約14万人の尊い命が失われました。
◇ 原子爆弾が広島に投下されたのは、昭和20年8月6日午前8時15分
広島に投下された原子爆弾は、原爆ドームのある上空約580メートルのところで爆発したと言われていますが、近くにある松笠山は標高375mです、また口田村で一番高い山の二ケ城山は標高483mです。
口田から太田川を挟んで北の方向に見える高い山、安佐南区八木の阿武山(アブサン)が586mですので、松笠山や二ケ城山より高く、この阿武山と同じ高さで爆発したことになります。
◇ 爆発による高温、高圧な火球は、1秒後には直径80mにも
爆発によって生じた高温(約1万度とも言われている。)、高圧の火球は1秒後には直径80mにも達し、3秒間にわたって強烈な熱線を放射したと言われています。 爆風の先端の衝撃波は30秒後には約11キロメートル先まで届いたと言われておりますので、あのとき私たちのお腹を押しつぶすような強い風は、10q離れた口田村には爆発の瞬間からおよそ30秒後にはその爆風が届いて屋根瓦を吹き飛ばし、窓ガラスを壊していたことになります。
◇ 原子爆弾を落とした飛行機も、この爆風で大きく揺れた
広島に原子爆弾を落とした飛行機は、とても早いスピードで南の方向に向けて逃げたのですが、飛行機(飛行機の名前は、エノラゲイと呼ばれていたB29)の乗務員は「8時15分原子爆弾投下、43秒後に閃光、衝撃で機体傾く・・・巨大な原子雲が見える。」「9時・・雲が見える、高さ1万2千メートル以上」と当時のことについて飛行記録には書かれていると言われています。
この大きなキノコ雲の下には、建物が壊され、地を這うように火焔が家や建物を焼き払って沢山の人が亡くなり、怪我をした人は水を求めて苦しんでいたのです。
私たちが学校から自宅に戻って見たときのきのこ雲は、朝日に照らされ白く銀色に輝き、また燃え盛る炎を映して赤く染まっていた部分もありました。
中国新聞の記事によると、「飛散物を伴い黒い雨」と記録されておりましたが、閃光後15分から4時間たって降雨が見られ、その範囲は爆心地付近から始まり広島市北西部を中心に降り、北西の方向に遠くは山を越えて山県郡にまで及んだと記されていますが、私たちの住んでいる口田村では一滴の雨も降らず晴天が続いていました。
◇ 原子爆弾が投下される前に
広島に原子爆弾が投下される前には、その爆弾を投下する予告の宣伝ビラが投下さ
れました、その宣伝ビラには「やせ細った人、がお米屋さんの前に行列している姿のマンガ」が書かれていて、広島はマッチ箱ぐらいの爆弾で全滅すると書かれていたように記憶していますが、口田国民学校の北側にある弘住神社の裏の山には沢山落ちていました。
おそらく、広島市内に落とすつもりであったのでしようが、風向きによって私たちの住んでいるこの地に落ちてきたものと考えられます。
たとえ広島市内にこの宣伝ビラが落ちていたとしても、市内の殆どの人はこのビラの内容を信じ、原子爆弾が落とされることを予測して避難する人はなかったと考えられますが、警告どおりに予め避難した人は助かっていたかも知れません。
その宣伝ビラには防水加工がしてあったのだと思いますが、毒薬が塗られていると言われて火挟みで回集して人目につかないよう燃やしてしまいました。
その時も、落下傘が空に浮かんでいたように記憶しています、その落下傘の一部は亀山村に落ちていた聞いておりますが、原子爆弾が投下された日も同じように青い空に落下傘が浮かんでいたのです。
◇ 口田国民学校の校庭で
あの日は、雲一つない良く晴れた大変暑い日でした、小学校は夏休みでしたが兵器を運んだり、兵隊さんを乗せたりする馬の餌となる干し草をつくるための「草刈りの日」で登校日となっていました。
飛行機が南の方向に飛び去り空襲警報も解除されたため、全校の生徒が大きな竹のかごを背中に全員が校庭に集まり朝礼の始まるのを待っていました。
爆弾を落とした飛行機が飛び去ったあとの青い空に、白い落下傘が浮かんでいるのを見ていたときのことです、ピカッとまぶしい光が走って、一瞬目の前が桃色になり何も見えなくなりました。(黄色になったと言う人もいました。)
暫くして「ドーン」と大きな音がして、お腹を押しつぶすような感じがして、学校の窓ガラスが全て壊れ、壊れたガラスの破片で怪我をした人もいましたが、皆が一斉に私たちが避難する防空壕のある口田村役場の方向(今の幼稚園のあるところ)に逃げました、この時、草を刈る鎌で足を怪我をした人もいました。
現在の校庭となっているところには、大きなため池があって校庭の下にはその池の水を抜くためのトンネルが掘られておりました。
そのトンネルの中でしばらく隠れていましたが、役場の人に家に帰るように言われて家路につきました、私の家も屋根瓦が飛び、障子が破れていました、トタン屋根が飛んでしまった家もありました。
◇ 私たちが見ていた落下傘は
偵察のために飛来した飛行機が飛び去り、空襲警報が一度は解除されたので私たちは口田国民学校に集まり朝礼の始まるのを待っていたのですが、広島に爆弾を落とすために飛んできた飛行機がきたときには、次の空襲警報の発令が間に合わなかったとも聞いておりますし、これまで広島は偵察行動だけであったので軍も安心していたのではないかとも言われています。
私たちが見ていた落下傘は、当時は原子爆弾が吊るされていたものと聞いていましたが、実際には原子爆弾が破裂する様子を調べるための機械が吊るされていたのだそうです。
◇ 口田では「ピカドン」と呼んだ
原子爆弾のことを「ピカドン」と言っていましたが、爆弾が破裂した瞬間は学校の南側にある「杉崎山」の向かい側に落とされたのではないかと思いました。
それほど鋭い閃光と大きな音にびっくりしたのですが、実際には口田は爆心地からは約10qも離れていたので、光が進む速さが音が空気中を伝わる速さより速いために「ピカッ」と光ってしばらくして「ドーン」と大きな音がしたのです。
このために私たちは原子爆弾のことを「ピカドン」と呼んでいるのですが、爆心地に近い所で被爆した人には殆ど同時であったのでないかと思います。
広島市内では、家の外にいた人は殆どが爆風で吹き飛ばされたり、「やけど」をされました、家や建物の中にいた人は倒れた建物の下敷きになったり、壊れたガラスで怪我をされ方も沢山ありました。
◇ 午後になって避難される人が
その日の午後から、被爆された方が市内から歩いて避難されてきました、高陽町史には、口田には午前9時頃には避難された方があったと記載されていますが、広島から10数qの口田では、車では15分から20分の距離ですが、歩くと早い人でも約2時間かかります、したがって原子爆弾が投下された午前8時15分から換算して高陽町史に記載されている午前9時までの1時間足らずの時間では、口田まで避難することは不可能であります、このことから、高陽町史に記載されている人々は、広島に着く前に原子爆弾が投下され交通が止まったことから、途中から引き返してきた人ではないかと考えられます。
この時、口田国民学校は臨時の避難所(収容所)になったのですが、やけどをして服はちぎれ、焼けただれた皮膚がたれさがった人や、怪我をされた人、壊れたガラス
の破片が体にささったままで避難されてきた人もいました。
この人たちは、皆さん口々に「広島市内は全滅した、新型の爆弾でやられた、電気爆弾でやけどをした」などと話され、村中にその話が一気に広がりました。
しかし、やけどのひどい人は殆ど無口で歩いて避難されており、その避難される人を追いかけるように軍隊のトラックからは乾パンが配られていました。
口田小学校(当時は口田国民学校と言っていました。)は臨時の避難所になり、被爆して怪我をされた方が沢山収容されていましたが、まだ、歩いて次の学校に行かれそうな人は学校の前で受付をしていた人(口田で防空壕を掘るため駐屯していた軍属の人たち)が案内されていました。
強烈な閃光により全身やけどを負い、爆風で2〜3メートルも吹き飛ばされ、建物の中にいた人は爆風で部屋の隅まで飛ばされ壁に叩きつけられ、壊れたガラスの破片が体に突き刺さった人や倒れた建物の下敷きになり、這いだして逃げられなかった人はそのまま建物とともに焼けて亡くなられた人もあると言われています。
東洋工場に学徒動員で行っていた人は、原子爆弾が投下されしばらくして芸備線の矢賀駅に出て列車で避難する予定であったが、列車が動かなかったため線路伝いに歩いて口田村まで帰ったと言う人もいます。
広島市の西部の方向に避難された人は、当時の中国新聞の記事によると「黒い雨」の中を避難されたと記されています。
◇ 被爆者の救護と給食のお世話
国民学校に避難してきた人たちには、地域のお母さん方(当時は国防婦人会と呼んでいた)や国民学校の女子生徒が中心になって、やけどの治療や食事の焚き出しのお手伝いをしていました。
当時は薬もなく、包帯などもありませんでしたので、体にささったガラスの破片の抜き取りや、体に産みつけられたハエの卵や蛆虫を取り除くことで手一杯の状況でした、やけどを負った人の体を蛆虫がはい回るたびに皆さんは大変痛がっていた様子が廊下の掃除をしていた私たちにもよく見られました、夜になっても横になって寝ることができなかったようです。
私たち男子生徒は、夏休みを返上して校舎や校庭の掃除をしていたのですが、亡くなられた方の火葬のお手伝いもしていました、私たちのお手伝いは校庭や廊下の掃除が殆どでしたが、毎日学校に行きました。
掃除のあとには、消毒液の入った水で手を洗って帰っていたのですが、手についた消毒液の臭いは洗っても落ちず大変困りました。
私の義父が役場にいましたので、毎日家に帰ってその日のことを報告書に記録していましたが、亡くなった方、その日に使ったお米など色々あったように記憶しています、しかし、亡くなられた方の名前などはなかったようです。
狩小川国民学校のこの時の様子について、高陽町史には次のように取りまとめられ ておりますが、口田村については詳細な記録が残っていないとされています。
私の義父が書いた資料が、高陽町への合併のさいに行方が分からなくなったのだと 思いますが、当時の狩小川国民学校の記録より多かったように記憶しています。
広島罹災者に対する給食状況
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月 日
|
給 食 |
給食人員
|
その他の所要品目 |
米 |
麦 |
薪 |
塩 |
8月 6日 |
21 |
49 |
362 |
21 |
14 |
7日 |
34 |
59 |
617 |
31 |
19 |
8日 |
40 |
93 |
672 |
44 |
27 |
9日 |
40 |
95 |
728 |
45 |
23 |
10日 |
35 |
82 |
598 |
39 |
22 |
11日
|
20
|
50
|
362
|
30
|
14
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|
)
◇ 不幸にして亡くなられた人は
毎日幾人かの人が亡くなり、高学年(国民学校の初等科6年生と高等科)の男子生徒は、その亡くなった方を荷車に載せて矢口の火葬場(現在は住宅団地の開発でなくなりましたが、矢口が丘入り口付近の道路の西側にありました。)に運んで火葬していました。
前日に亡くなられた方は、渡り廊下(校舎と校舎の間をつないでいる廊下)に一時安置され翌日の朝、荷車に乗せて火葬場に運ぶのですが、6年生の生徒さんや高等科の皆さんが担当しておりました、私たち低学年の生徒も車に乗せるときには全員でお見送りしていました。
火葬されたお骨は、鍋山の共同墓地周辺の山林に埋葬されていたようでが、火葬する薪が無くなってくると共同墓地近くの山林に直接土葬をしたと話している方もあります。現在その地は、住宅団地の開発により住宅が立ち並び、お骨を埋葬した当時の山林の面影はなくなっておりますが、住宅団地の開発の際に山林に埋葬された原子爆弾による犠牲者のお骨は、その近くの共同墓地の一番高い所にある無縁仏のお墓の下
に大切に移されたと聞いております。
この口田にも、原子爆弾によって亡くなられ名前もわからず、住所もさがすことができず、遺族の方にはもちろんお知らせされずに埋葬された方があり、その人たちのお骨を埋葬してあるお墓があることも知っていただきたいものと思います。
◇ 亡くなった母親と子どもの別れ
原子爆弾の被害の様子を描いた絵の中に、小さな子どもさんがすがって泣いている絵を見ることがありますが、私たちもあのような風景を実際に見ました。
お母さんが亡くなったことを知らない3才位の女の子が、亡くなったお母さんを荷車で火葬場に運ぶとき、「お母ちゃんを連れていってはだめ」とすがりついて離れないとき一番辛かったです、何時までもあの時のことは忘れることができません。
◇ 今も残る原子爆弾の遺跡
口田小学校の近くの弘住神社の石の鳥居は少し歪んでいます、口田村では原子爆弾の爆風によりガラスが壊れ、屋根瓦が吹き飛んだ家が沢山ありますが、弘住神社の鳥居もその時の爆風によって歪んだのです。
現在では大きな堤防と道路に囲まれていますが、当時の弘住神社の近くには小さな堤防(口田村史にも書かれている「馬が小便ばりゃ小田の土手は切れる、切れてなるまいゴマの種」と歌われている。)があって、現在の堤防とは比較にならない小さな堤防であったため太田川の氾濫でよく崩れていました、このために堤防を補強するため堤防の外側には沢山の竹藪が繁っていたのです。
現在もその竹藪のなごりが一部残っていますが、広島に投下された原子爆弾の爆風は太田川を逆上って、小さな堤防と竹藪を飛び越してこの神社の真正面からあたったため、鳥居が歪み神社の一部も壊されたのです、神社の拝殿は補修されておりますが石の鳥居はそのままとなっております。
◇ 防空壕の跡と鳥越え池の排水路
本土決戦を控えてこの口田村にも沢山の防空壕が掘られました、私たちが避難するための防空壕もありましたが、その多くは口田国民学校に寝泊まりしていた軍属の皆さんが山の斜面に掘った防空壕でした。
この防空壕は、食料を備蓄するためとか一部は兵器を隠すためとか言われていましたが真相は分かりません。
現在は住宅団地の開発によりほとんどみることはできませんが、幾つかは残ってい
ます、私たちが学校にいる時の避難場所として指定されていたのは、口田国民学校の前にあった「鳥越え池」の排水路として造られていたグランドの下のトンネル式の用水路でありました、このため原子爆弾が投下されたとき一番先にこのトンネルの中に逃げ込んだのです。
口田小学校の校歌にも歌われている「鳥越え池」ですが、今は埋め立てられて小学校のグランドとなりその姿を見ることもできません。
また、口田小学校に保存してある「中矢口古墳」の発掘現場の下にも防空壕があり ました、この防空壕は隣組(現在の町内会と同じような組織)の皆さんがほったもの ですが、戦後この防空壕が崩れて上部にあった中矢口遺跡の一部が壊れました。
これとは別に、口田国民学校に駐屯していた軍属の人たちが掘っていた防空壕は、 本土決戦に備えての食料の備蓄用と聞いていますが、現在は大きな住宅団地ができて その面影をどこにも見ることができません。
各隣組で掘っていた防空壕の一部は、矢口川に沿った山裾に2か所、中小田古墳へ の登り口に1か所残っております。
◇ 口田村の村長さんも原子爆弾で亡くなられました
私の義父は当時口田村役場の助役でした、原子爆弾が落とされた日の前日には当時の村長さん(河内豊)と一緒に宇品の港に兵隊さんを送って行きました。
河内豊村長さんはその夜は市内に泊まり、私の義父は口田に戻りました、このため河内村長さんは広島市内で原子爆弾が落とされて行方不明になりました。
高陽町史には、広島市八丁堀付近で国民義勇隊を引率して作業中被爆死した、その他口田村では一般人35人が被爆死したと記されております。
被爆して避難される方が一段落した数日後(はっきりとした日はわかりません)には役場の人たちは、河内村長さんを探しに市内に行きました。
私も義父に連れられて自転車に乗って探しに行きましたが、その時は吊り橋(牛田の工兵橋だと思います。)のある所から先の市内には入れず引き返しました。
さらに幾日か過ぎて、再び村長さんを探しに行きましたが一面焼け野原で、壊れたビルや焼け焦げた木ばかりの瓦礫の上に立っても、僅かに水道の蛇口から水が出ているのが動いているもので、静かな死の世界のようであったとの印象が残っています。 煙は出ていませんでしたが、一面焼け野原の中では私たちが立っていた場所がどこであっかわかりません。
当時村役場の助役であった私の義父は、河内豊さんの亡き後の避難してこられた被 爆者の救護活動を中心に役場の仕事のため、毎日深夜に帰宅しその日の残務処理をし
ていたように記憶しています。
口田国民学校に収容された避難してこられた被爆者への救護は、何時ごろまで続い たかはっきりしませんが、口田村には2500人(一般の家庭への避難者も含まれる のではないかと考えられます。)が避難され、高陽町史に記載されている狩小川村の 様子では、8月12日から25日にかけての収容者の報告が可部警察署に提出されて いるので、口田村でも同様な扱いであったものと考えられます。
この後、8月15日には終戦を迎えたのですが、河内豊村長さんのあとをうけて私 の義父は同年10月19日付で村長に就任し、終戦の混乱期の行政に携わったのであ りますが、戦後の民主化政策の一つとして、昭和21年(1946年)1月にGHQ の覚書に基づき、議員、公務員その他政界、財界、言論界の指導的地位から軍国主義 者、国家主義者など約20万人が公職などにつくことを禁止する法律(公職追放令) が施行されることとなり、昭和20年(1945年)12月28日付で村長の職を解 任されています。
◇ 集団疎開で学校の教室が足りなくなった
口田村には教円寺と教蓮寺の2つのお寺がありますが、原子爆弾が投下される前には、このお寺には集団学童疎開で沢山の子どもたちが生活していました。
この頃には、都市の学童は田舎へと集団で疎開をすることとなっていました、口田村にも沢山の集団疎開や知人、親戚などを頼っての田舎の家庭へ疎開する人もありました。
口田村への集団疎開は、牛田地区(当時は牛田防空小区と呼ばれていた。)の人が多かったのですが、このため学校では教室が足りなくなり、私たちの学級でも70人〜80人にもなり、一つの教室には入りきれない状態となったのです。
このため青空学校と言われる野外学習が多くなりました、野外学習は食料増産のための山の開墾、飛行機や軍艦などの燃料にする松根油をつくるため、枯れた松の根を掘り出しに山に登っていました。
この松の根の掘り出し作業とは別に、松の木にきずをつけて松脂をとることもおこなわれていました。
このほか、本土決戦に備えて、手榴弾を投げる訓練として、太田川でこぶし大の石を川の中に投げ込む練習や、竹やりでわら人形を突くこともおこないました。
各家庭にも、軍の備蓄食料として穀物が保管してありました、この軍の備蓄用の食料も終戦とともに何処かに持ち去られていきました。
集団疎開で口田村にきていた子どもたちは、牛田地区の人が比較的に多く、原子爆
弾で家が焼けなかった人もありますが、家族や家を失った人も沢山いました。
家庭や親戚を頼って帰って行った人もありますが、帰るあてもない人もいてその後の消息は分かっていません、広島湾に浮かぶ小さな小島「似の島」には、その人たちが生活をする施設もつくられました。
◇ 芸備線に買い出し列車が走って
戦時中は、「勝つまではほしがりません」と言って我慢をしていたのですが、必要な生活物資のほとんどが戦地に送られ、ほしくても何もない時代もありました。
食料の増産のため、稲を食い荒らす「イナゴ」取りに毎日田んぼの中を走り回っていました、そのイナゴも学校の給食で使用され、私たちの大切な食料になっていたのです。
運動靴も配給ということで、全員に行き渡るようなことはなく、なかなか買うこと
ができませんでした、下駄やわらで作ったゾウリを履いて学校にきていましたし、わ
らぞうりの作り方も小学校で教わりましたが、夏はほとんど素足(はだし)でした。
戦争が終わって兵隊さんが外地から引き上げてくると、食べ物が一気になくなり食料不足は深刻になって参りました、このため芸備線の列車に乗って遠くの田舎にお米や野菜などを買い出しに行く人も多くなり、芸備線を走る列車は買い出し列車と呼ばれるようになりました。
広島駅前やその周辺には、この買い出し列車で仕入れたお米や野菜などの食料を売るお店も沢山ありましたが、このお店は「闇市」と呼ばれていました。
◇ アメリカからの救援物資
戦後の食料や資材が不足している頃、アメリカからも沢山の食べ物や救援の物資が送られてきました、ミルクなどの救援物資は学校給食などに使用されていました。
そのほかノートなどの学用品なども送られてきていましたが、日本ではわら半紙とか言われたノートを使っていたので、これまで見たことのないような立派な用紙のノートにびっくりしたことがありました。
学校で使用する教科書なども、新聞のような折りたたみ式のものを使ったときもあ
りました。
◇ 進駐軍がやってきて
戦争が終わって、進駐軍が口田村にやって来たときのことです、初めて見る外国人は「MP」と呼ばれていたように思います、女子生徒は恐れていたようですが、男子
生徒はそんなに抵抗はなかったように記憶しています。
進駐軍のジープを初めて見たときもびっくりしました、隣村との境界にある「夜山の峠」でそのジープが田んぼに転落したことがありました。
ジープが転落「夜山の峠」は、道が〔くの字〕型に大きく曲がっていて、見通しが全くきかない場所であるため、地理を知らない外国の兵隊さんは真っ直ぐに走って田んぼの中に落ちたようですが、転落した田んぼは高さが3mぐらいもある高い場所です、これまで見たこともない大きなクレーン車がきて、転落したジープを簡単に引き上げたのですが、引き上げられたジープがそのまま自力で走り去っていきました。
自転車や馬車が主要な乗り物であった時代の私たちには、この大きな自動車がジープを吊り上げるところを見てびっくりしました。
帽子にローマ字で自分の名前を書いて、外国の兵隊さんに名前を呼んでもらって喜び、兵隊さん相手に「ギブーミーチョコ」など言っていましたが、生まれて初めて話した英語がこの言葉であったかも知れません。