**ふるさとの神社・仏閣と地蔵**
◇ ふるさとの神社
① 弘住神社
その昔には、「小田之庄八幡宮(おだのしょうはちまんぐう)」と呼ばれていた が、その後弘住八幡宮(こうずみはちまんぐう)と改められ、明治6年(1773 年)に現在の「弘住神社」に改称された。
主祭神に応神天皇(おおじんてんのう・品陀和気命〔ほんだわけのみこと〕)を 祀り、祭神に神功皇后(しんぐうこうごう・息長帯比売命〔おきながたらしひめの みこと〕)、玉依姫命(たまよりびめのみこと)を祀り、毎年10月第四日曜日に 例祭がおこなわれている。(旧例祭日10月20日)
建立された時期は不明であるが、神社の入り口には建立700年の記念碑が建て られ700年~750年の歴史があると考えられている。
弘住神社は、八幡神社として小田、矢口から中筋、東野、古市あたりまでの地域 の守り神として崇められ、境内の狛犬(こまいぬ)さんは、他のお宮にはあまり例 を見ない子連れの狛犬であるため、「安産の神さん」としてお参りする人も多く、 新旧2組の狛犬さんが神社の境内に鎮座している。
現在の狛犬は第2代目と第3代目で、平成13年(2001年)3月の芸予地震 によって古い狛犬さん(初代)は壊れてしまい、その年の10月には第3代目とな る狛犬さんが建立された。この第3台目の狛犬は、できるだけ初代の狛犬に近い姿 にとつくられ、第2代目の狛犬とはその姿が少し変わっている。
また、神社の入り口の鳥居の上部には少し歪みが見らますが、これは昭和20年 (1945年)8月の広島に投下された原子爆弾の強い爆風によるものといわれて いる。
神社の境内の「八幡の大椎」と呼ばれていた「アラカシ」も、平成3年(199 1年)の台風により樹木の中程から折れ、危険防止のためにと根元から切り倒され ましたが、その切り株の周囲は375mもありました。
この、弘住神社には台風で倒れた「八幡の大椎」に匹敵する3mを超す椎の大木 が2代目の「八幡の大椎」として大切に保存されております。
境内とその周辺の山中にも沢山の巨木がありますが、神社裏のこの山中の弥生時 代の後期の遺跡からは炭化した「シリブカシイ」の果実が見つかっており、その時 代にもこのあたりにはこの種の樹木が生育していたものと考えられる。
② 月野瀬神社
月野瀬神社の祭神は「加茂大明神(かもだいみょうじん)」とあり、この神社の またの名を「月野瀬加茂大明神」と称し、建立の時期は不明であるが1,000年 以上は経過しているといわれ、口田地区では一番古い神社である。
現在の本殿は、昭和2年(1927年)10月に改築されたものであり、この地 を「大明地」と呼ぶのも、このお神社の名前からきている。
楽音寺蔵の「安芸国神名帳」には「安北郡の四位33前の内に、矢口明神とある 古社である。月野瀬加茂大明神と称し、この地を「大明地」と称す。」とあり、ま た、広島県史によると「祭神は、別雷神(わけいかづちのかみ)」とある。
別雷神(わけいかづちのかみ)について、加茂建角身命(かものたけつぬみのみ こと)の御子建玉姫依姫命(たまよりびめのみこと)が、火雷神が丹塗の矢(にぬ りのや)となりて通い来給えに婚し、加茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」 を生み給ふ。」とある。
なお、この「別雷神(わけいかづちのかみ)」に関しては古来より種々の説があ り、「龍神」或いは「雷神」であるとも言われるが明らかにされていない。
この神社を取り囲むように、大久保遺跡など数多くの弥生時代後期の遺跡が存在 することが確認されている。
安芸国神名帳に記されている「古社」について、平安時代以前から鎮座していた 神社として記述されており、これらの「古社」と呼ばれる神社は朝廷により保護さ れ、平安時代には荘園主などが代わって保護してきたが鎌倉時代に入り大方の古社 は荒廃していき、その存在すらはっきりしないものが多いと言われている。
③ 新宮神社
旧称を熊野新宮と称し、慶長4年(1599年)に源朝臣山県彦左衞門就勝が勸 請、その後文化3年(1806年)幣拝殿を造営、安政3年(1856年)及び明 治34年(1901年)には本殿が造営された。
昭和3年(1928年)5月には、本殿の屋根を銅板に葺き替えがおこなわれて いる、平成10年(1998年)10月には、開祖400年の記念式がおこなわれ ていて、境内にその記念碑も建てられている、この時には拝殿の屋根の一部が補修 され境内の周囲には「かいづかいぶき」などの記念植栽もおこなわれた。
祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、大己貴命(おおなむちのかみ)で毎 年10月第四日曜日には例祭がおこなわれている。(旧例祭日10月20日)
大己貴命(おおなむちのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、 大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、大名持神(おおなむちのかみ)など種々の呼び
名がつけられている。
日本書記の本文には、須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛名田比売(くしなだ ひめ)との御子神としているが、「古事記」では5世乃至6世の孫となっている。 大山祇命(おおやまづみのみこと)は、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美命(い ざなみのみこと)の御子で、大(おお)はすべての意味をもち、ヤマツミとは山を 持ちことを意味し、山々の精霊を総括支配する神を指している。
この神社には、ご神木として崇められている大きな「いちょう」の木は、その高 さ26m~28mもあると推定され、幹周りも35mあり、樹齢200年を超える 古い木ある。
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※ 「朝臣(あそみ)」とは、天武天皇の時代(673~686)に定め
られた「八種の姓 (はっしきのかばね)」と呼ばれる敬称で、山県彦
佐衛門就勝は源の姓のなかでは第2位の地位にある人のようである。
「八種の姓(はっしきのかばね)」
第1位真人(まひと)・第2位朝臣(あそみ)・第3位宿禰(すくね)
第4位忌寸(いみき)・第5位導師(みちのし)・第6位臣(おみ)
第7位連(むらじ) ・第8位稲置(いなぎ)の称である。
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平成13年(2001)1月、神社への初詣の人々に「21世紀のあなたへのメ ッセージ」を書き残すタイムカプセルを置き、自己への宛先などを記入して投入し ている、このタイムカプセルは神社の本殿の奥深くに格納しているが、2011年 の成人の日に開封することとしている。
④ 矢口えびす神社
新宮神社の境内に建立されているが、その昔は友竹(芸備線の矢口トンネルの手 前付近)にあって七福神の1人恵比寿さまが祀られている。
この御神体の恵比寿さまは、昔中国から持ち帰られたものといわれ、矢口村と呼 ばれていた当時この地で商売をしていた人が、家の神さまとして祀っていた恵比寿 さまをこのお社に祀り、現在は4体の恵比寿さまが祀られている。
お正月になれば、おめでたい七福神が全国各地でおこなわれている、この「七福 神」の由来について、室町時代(1338~1573)の末期頃、民間信仰として 7種の福神が考えられ、福徳長寿をお祈りするようになった、と言われており、こ の7種の福神とは「えびす(夷・恵比寿)」「大黒天」「毘沙門天」「弁才(財)
天」「福緑寿」「寿老人」「布袋(ほてい)」の7つだが、「福緑寿」「寿老人」 は、同体とか言われている。
この七福神の乗る船を「宝船」といい、江戸時代の人々は正月2日にその画像を 枕の下におき、初夢を見ようとした。
⑤ 大歳神社
口田小学校の西の小高い杉崎山にあって、杉崎神社とも呼ばれているが、建立さ れた時期など、詳細は不明である、神社前の鳥居には天保13年(1842年)と 刻まれており、およそこの時期に建立されたものと考えられる。
大歳神社は、地元の人には「ダサーサン」と呼ばれているが、高陽地区内には他 に落合、深川にも祀られており「大歳神(おおとしのかみ)」はもともと農耕の神 さんといわれ、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って祀られ、毎年9月15日に はお祭りがおこなわれている。
大歳神(おおとしのかみ)は、須佐之男命(すさのおのみこと)の御子で、母神 は大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)の大市比売神(おおいちひめ のかみ)の弟の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とともに穀物の守護神といわ れており、稲荷神社に祀られる神が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であり稲 荷神社と同様に農耕の神であるゆえんである。
この大歳神社の鳥居も、平成13年(2001年)3月の芸予地震によって一部 が壊れ修復された。
⑥ 平野神社
中小田公園にあって、平野古墳(古墳時代の後期に見られる横穴式古墳)の入り 口に建立されている。古い書物によるとこの古墳の入り口に「平野山鎮守祠」あり と記録されており、この古墳の入り口は古くから開いていたのではないかといわれ ていて、この古墳からの出土品はなく詳細は分かっていない。
現在の建物は、昭和52年(1977年)に建て替えられたものであるが、郡中 国郡志には「平野山鎮守祠 神地畝 一畝十歩 無高 祭神は大穴牟遅神〔おおな むちのかみ・・大己貴命(おおなむちのかみ)とも書く・・〕、祭日9月13日」 とあり、ご神体は横穴式古墳といわれていて、この古墳の上には「鎮守の大椎」と 呼ばれる、樹齢200年を越えるシラカシの大木がある。
(大穴牟遅神(おおなむちのかみ)は、大国主命の別名である。)
⑦ 金毘羅神社
弘住神社の境内にある、金毘羅神社はもともと海の守り神としてお参りされてい るが、海から遠く離れたこの地に金毘羅神社が建立されていることについて詳細は
わからない。また、弘住神社の境内の石灯籠は「弘住の渡し」と呼ばれる所にあっ た灯台で、太田川の河川改修工事によりこの地に移されたものであるが、弘住神社 の氏子さんが当時「北の庄」と呼ばれていた時代から、川向いの中筋、東野、古市 にまで及ぶことを考えると、昔は船による交流が盛んにおこなわれていて、安全を 願って建立されたのではないかと考えられる。
また、弘住神社の境内に隣接して「草競馬場」があって、毎年の例祭に奉納され ていたとの記録もあり、神社の入り口近くにはその観覧席の跡と見られる階段状の 石垣も見られ大きな桜の木が毎年春には美しい花を咲かせている。
神社には、このほかに八幡の大椎と呼ばれる大木がある、神社の裏山の弘住遺跡 からは炭化した椎の果実も発掘されており、弥生時代の祖先がこのあたりの椎の実 を食していたとも見られ、当時からこのあたりには「シリブカシイ」の大木があっ たのではないかと推測され、現在でも大切なご神木として育てられている。
⑧ 松笠山の稲生神社
松笠観音の境内の続きには「稲生大明神」と呼ばれる稲生神社がある、郡中国郡 志には、「御留め松笠山ノ内一畝二歩稲荷祠 梁桁方九尺、枌葺 右は観音鎮守ニ 而御給主様御造営」とあり松笠観音の鎮守として建立されたものと見られています が、その郡中国郡志には建立の時期が、元文3年(1738年)に浅野吉長を大檀 主として勧請造立されたと記述されている。
神社の横にある大きな岩の下には、麓の「稲荷神社」にお使いに走ったといわれ る「狐のお宿」と呼ばれる洞穴があり、人間が一度入ると二度と出られなくなると の伝説もある。
「稲荷」は、五穀の神の名前「宇迦の御魂(うかのみたま)」と言われ、この神 は食物、特に主食である稲をつかさどる神で、その神を祀る神社を「稲荷神社」と 呼んでいる。
京都伏見の「稲荷神社」(元官幤大社)が全国の稲荷神社の総本社と言われ、和 銅4年(711)に創始され、五穀豊穣、商売繁盛の守護神としての信仰が厚く信 者も多い。
松笠山の「稲生神社」の名称が、稲荷の「荷」が「生」になっていることについ てはっきりした資料がなく不明ですが、同様な名称で広島市内にもあって、その稲 生神社の近くにある橋の名称は「稲荷橋」と名付けられております。
⑨ 胡麻が谷稲荷社
下小田の岩海(いわかい)のお地蔵堂からの松笠山への参拝道に沿って一丁目の 石標のある付近に、このお稲荷さんが祀られている、よく気をつけて見ないと見落
とすぐらいの小さなお稲荷さんですが、郡中国郡志には「胡麻ケ谷稲荷祠 梁九尺 桁一間ハラ葺(ハラ葺とは「藁葺き」のこと)祭日9月12日」と記述され、大変 歴史のあるお稲荷さんである。
この地が胡麻が谷と呼ばれることから、その地名からこの名前が付けられている のであるが、現在の建物は昭和の始め頃に建立されたと言われている。
⑩ 樽佐山稲荷社
杉崎山の大歳神社の西側の木立の中に赤いお堂が見られる、このお堂が樽佐山稲 荷社と呼ばれる神社ですが、「元樽佐山鎮座、明治5年(1872年)壬申5月に 弘住社相殿合併、祭神宇迦御魂神(うかのみたま)」と樽佐山稲荷社に関する記録 が残され、昔松笠山稲生神社のお使い狐が通って来ていたという噂がある。
稲荷祠については、このほか二ツ城山麓に「二ツ城稲荷神社」があったと記され ていて、弘住神社に合祠されたと言われているが定かでなく、その所在もはっきり していない。
⑪ 三鬼大権現
松笠山の稲生神社の続く尾根の先端には、ご神体ともいわれる大きな自然の岩の 上に乗っかるように「三鬼大権現」のお社が建立されている。
昭和5年(1930)に宮島の弥山の頂上付近にある「三鬼神大権現」のお社と 向き合って建立されたといわれる「三鬼大権現」さん、大日如来、虚空菩薩、不動 明王の化身といわれる天狗を神して、松笠山をお守りするため祀られている。
この大きな岩には、天狗の足跡が残されているといわれ、その岩には足跡らしき 「くぼみ」もあり、神仏合体の昔の姿を残すお社である。
⑫ 岩上八幡神社
岩上八幡宮とも呼ばれ、文明の頃(1464~1486)の戦国の時代に建立さ れたといわれているが、詳細については分かっていない。神社の北側の木立の中に は「岩の上貝塚」がある。
祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)・玉依毘売命(たまよりひめのみこ と)・息長帯日売いのち(おきながたらしひめのみこと)、安政6年(1859) 10月拝殿を上棟、明治4年( )2月岩上八幡宮を「岩上神社(いわのう えじんじゃ)」に変更された。
⑬ 土井迫黄幡神社
狩留家湯坂の荘園領主大幡公郷により、天平12年(740)に創建され、延久 元年(1069)に岩の上池田に移祀したと言われ、またの名を「池田城」とも呼 ばれる。
黄幡神社は、陰陽家(おんようげ)で祭る八将神(はっしょうじん)の一つで、 軍陣守護の神といわれ、弓始めにこの神のいる方角に向かって弓を射れば吉、また この神の方角に門を建てたり、土を掘ったりすると凶とも言われている。
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陰陽家(おんようげ)で祭る八将神
太歳(たいさい)・大将軍(だいしょうぐん)・大陰(だいおん)
歳刑(さいきょう)・歳破(さいは)・歳殺(さいせつ)・黄幡
(おうばん)・豹尾(ひょうび)の8神の称、吉凶の方位をつかさ
どると言われる。
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⑭ 岩上祇園社
京都八坂神社の流れをくみ、素戔鳴命(すさのうのみこと)を祀り、地元では疫 病回避を願い「お祇園さん」と呼び、現在でも地域の人々の信仰の対象となってい る。
⑮ 石丸神社跡
岩の上のバス停近くの南側には、石丸神社跡と記した「石標」が2か所立てられ ている、その一つはバス停すぐ近くの南側で、今一つは岩の上川の近くの山裾にそ の遺跡が見られる、この石丸神社は地元では「げた」の神様ともいわれ、この地が 昔は下駄の主要な産地であったことが窺える。
◇ 神社の名称と「鳥居」
① 神社の名称
新宮神社や月野瀬神社、弘住神社など一般にお宮と呼ばれるお社は「神社」と呼 ばれています、出雲大社、明治神宮など他の呼び方をするお宮もあります、この違 いについて、神社関係の専門誌の記録による「神宮」や「神社」の名称は、神社に 付される称号で社号と言います、と記述されております。
その記録によりますと、現在「神宮」とのみ言えば、伊勢の神宮を示す正式の名 称として用いられ、「神宮」の社号を付されている神社には、皇室の祖先をお祀り している「霧島神宮」や「鹿児島神宮」などがあります。
また歴代天皇をお祀りしている「平安神宮」や「明治神宮」など、特定の神社に 限られています。
これに対して「神社」は、その略称である「社」と共に一般の神社に対する社号 として広く用いられおり、社号として「宮」は天皇や皇族をお祀りし、由緒により
古くから呼称として用いられている神社に使われる「大社」は元々、天孫に国譲り をおこない多大な功績をあげた大国主神を祀る「出雲大社」を示す社号として用い られております。
昭和20年(1945年)までは神社には「社格」がありました、この「社格」 の起源は、延長5年(927年)に成立した「延喜式(えんぎしき)」(律令の施 行規則)に定められる「神名帳」によって定められていて、大社などの名前につい ては、この当時の「大社」「中社」「小社」という社格が「社号」としてそのまま 残されたものと言われ、このほかに「一の宮」「二の宮」「三の宮」などの格付け もされていたようですが、現在では「地名」として残されているところもあり、そ の一部を知ることができます。
厳島神社は当時「一の宮」としての格付けもされていたようですが、昭和20年 (1945年)に「社格」に関する制度が廃止され、現在では神社の格付けは残っ ていませんが、「社号」としての名称は残っているのです。
この「一の宮」は、旧68か国ごとに霊験の最も高い神社が、平安、鎌倉時代に 「一の宮」として定められたもので、国家神道による神社の序列以前の古代信仰の 伝統を今に伝え、四国の遍路のように「朱印帳」を手に「一の宮」巡りをする人が あり、全国で106か所ある。
② 神社の鳥居
一般に鳥居は、神社の門であると言われるが、その起源については日本始源説と インド・中国・朝鮮からの渡来説があり定説はない。
鳥居の語源についても「鶏(とり)が止まり居る横木」とか「人が通り入る門」 とか言われているが定かでなく、鳥居の形式も多種多様であるが、大別して「神明 系」と呼ばれる鳥居と「明神系」と呼ばれる鳥居に区別することができる。
神明系と呼ばれる鳥居は、伊勢神宮、靖国神社や広島の「白神神社」などに見ら れるシンプルな形の鳥居であるが、明神系の鳥居は一般に数多く見られる装飾がつ いている鳥居である。
稲荷神社の「鳥居」が「朱色」であることについて、特に定説はないようですが 江戸時代には「火災防止」の神として祀られていたこともあって「朱色」になって いるのかも知れません。
③ 日本の3大鳥居と重要文化財指定の鳥居
日本の3大鳥居と言われているのは、厳島神社の大鳥居、福井県の気比神社の鳥 居、春日大社の鳥居で、厳島神社の鳥居の高さは26.8m、気比神社の鳥居の高 さが10.9m、春日大社の鳥居が約10mである。
重要文化財に指定をうけている鳥居は、木造の鳥居では奈良大神、春日大社、気 比神社、厳島神社の鳥居で、石造りの鳥居では東照宮(仙台、日光、川越、東京上 野、岡崎滝山)に八幡宮では鎌倉鶴岡、岡崎伊賀、倉敷本庄がある、山形市元木・ 成沢の両神社の鳥居、京都八坂神社、福岡宮崎(はこざき)神社の鳥居がある。
日光の二荒山(ふたもやま)、福岡英彦山(ひこさん)の鳥居は銅造の鳥居で重 要文化財に指定されている。
④ 神社の「狛犬」
神社には「狛犬」さんが正面に一対相対して並んでいる、狛犬(こまいぬ)と呼
ばれるのであるが犬の形とは少し異なります、この「狛犬」と呼ばれる像は、悪霊 払いの狛犬〔高麗犬(こまいぬ)〕で獅子とも言われ朝鮮の高麗(こま)からの伝 来したものと言われている。
当初は、室内に魔除けのためにと、凡帳(どんちょう)や御簾(みす)の裾に重 しとして使われていたが、次第に神社や寺院の守護的な役割を担って、外部に置か れるようになり腐らないようにと木製から石へと移行したと言われている。
悪霊払いとしては、エジプトのピラミッドの前にあるスフィンクスなどが有名で あるが、全国各地の狛犬にはそれぞれ特徴があり、弘住神社の狛犬は子ずれの狛犬 で安産の守り神として崇められており、同じような子連れの狛犬は、豊田郡本郷町 にも建立されていると言われている。。
神社の「狛犬」さんは、口を大きく開けた狛犬と、口をつぐんでいる狛犬が一対 になって座っているが、これは、密教の「阿吽」(あごう)の思想とも合致して日 本独特の狛犬が誕生したとも言われていて、「阿吽」の「阿」は呼気を、「吽」は 吸気を表し、万有の資源と究極を象徴しているとも言われている。。
大きく口を開けているのは「吠えている」男らしい姿を表し、口をつぐんでいる のは女性を意味するものとも言われている。
このほか、陰陽道(おんようどう)で言われている百鬼出没する方位として「丑 寅(うしとら)」の方角(北東方向)は「鬼門(きもん)」と呼ばれ、その方向に は建築や引っ越しなどは敬遠されてきた。
広島城の「鬼門(丑寅)」にあたる方向には、松笠観音が建立されて百鬼出没を 防いでいるとも言われている。