口田の古墳と遺跡
(ふるさとのロマン弥生から古墳時代へ)
○ ひろしまの弥生・古墳時代
今からおよそ2,300年前、大陸から新しい技術と金属器(鉄、青銅など)の伝来により、集落の形成にはじまり、米づくりに代表される農耕文化の発達が見られるところであります、口田地区を含めて高陽地域では大規模団地の造成により当時の住居跡などの遺跡、古墳などが次々と発見されております。
この地域の特徴として、平地が少なく住居などの居住空間は必然的に山地を切り開いて構築され、少ない平地に耕地が形成されたことが窺えるところであります。
口田地区では、平成8年(1996年)に国の史跡指定をうけている「中小田古墳群」(14基)や広島県の史跡指定をうけている西願寺山墳墓群、広島市域では最大の規模と言われている「梨ケ谷遺跡」など、弥生時代後期(1800年前)から古墳時代前期、後期にいたる数多くの遺跡や古墳が発掘されているが、発掘された遺物や古墳の埋葬の形態の変化などから、「村」全体で分かち合っていた「富や権力」などが、特定の人に集中していた時代へと移り変わって行った「村」の様子が窺え、その後「村」から次第に「国」へと時代の変遷の中で移行して行ったことを知ることができ、安芸の国の誕生へのルーツをさぐる貴重な遺跡、古墳が多数見つかっている所であります。
なかでも、西願寺山墳墓群、梨ケ谷遺跡など弥生時代後期から、弘住遺跡の第3号墳の弥生時代から古墳時代への移り変わりの狭間に形成された遺跡は、国の史跡指定を受けている中小田古墳群とともに、古代日本の姿を知るうえで大変貴重な存在となっております。
○ 口田の主要な遺跡と古墳
ア 西願寺山墳墓群遺跡
西願寺山墳墓群は、弥生時代の後期(約1900年前〜1700年前)の墓地群と考えられ、5群からなっております。(なお、古墳と呼ばれるものは卑弥呼以後の古墳時代からで、弥生時代のお墓は「墳墓」や「墳丘墓」と呼ばれています。)
このうち、特殊な埋葬形態と河原石を大量に積み上げた竪穴式石室は、独特のもので、県内では他に例をみない貴重な遺跡として、昭和49年(1974年)4月にその内の2群が広島県の史跡として指定を受け保存されています。
また、この西願寺山墳墓群と梨ケ谷遺跡との間には「西願寺北遺跡」もありましたが現在では団地造成により見ることができなくなっています。
イ 梨ケ谷遺跡
広島県の史跡指定を受け、保存されている西願寺山墳墓群近くの北側に位置する小高い丘の上(口田町)に「梨ケ谷遺跡」があります。
この梨ケ谷遺跡は、弥生時代後期のはじめ頃(約2000年前)から、弥生時代の後期(約1700年前)にかけて形成されたものと見られており、この遺跡には竪穴式住居跡18軒以上、掘立柱の建物跡の他に貯蔵穴などが見つかっております。
また、弥生土器、石鏃、土製勾玉、鏡形土製品などの遺物が見つかっており、竪穴式の石室からは弥生時代の人骨も見つかっております。
この「梨ケ谷遺跡」は、これまで広島市内で見つかっている集落跡としては比較的規模の大きなものであり、建て替えられたと見られる住居跡も多く見られることに特徴があります。
また一連の墳墓群のうち、竪穴式石室には西願寺山墳墓群と同様多数の河原石が使用され、このあたり独特のつくり方となっております。
また、限られた住居跡からは祭りに関係する遺物(土製の勾玉、鏡形土製品)などが見つかっております。
このような古墳時代直前の弥生時代の竪穴式石室のつくり方としては、全国的にも少なく、河原石を使うタイプはほとんどが太田川下流域に限られ、短期間しか造られていないため、その源流は謎に包まれていると言われておりますが、発掘された鉄器などの副葬品から、朝鮮半島南部にその起源を探ることができるのではないかという意見もあります。
ウ 大久保遺跡
JR芸備線の安芸矢口駅前の道を、安佐大橋東詰めに向けて数分も歩いたあたりには「山陽自動車道」の高架橋と交差する場所があります。
そのやや東の方向に目をやると、こんもりとした繁みに囲まれた山裾に、月の瀬神社が見られますが、その裏山周辺が「大久保遺跡」と呼ばれるところであります。
この大久保遺跡は、山陽自動車道の建設工事により発掘調査がおこなわれ、南東側の一部が削り取られたのですが、昭和3年(1928年)の発掘調査がおこなわれた当時の地形図によると、南西方向に延びる丘陵の先端付近で、東側に入り込んだ谷に向かって南東方向に枝尾根が派生し、この遺跡は北東側に残る尾根上と南西側に残る丘陵先端部分の斜面に分布していたことが確認されております。
北東側に残る尾根からは、尾根の東側の谷を望むかたちで営まれたと見られる竪穴式住居跡5軒、貯蔵穴2基、テラス状遺構2カ所が見つかっており、丘陵先端部の太田川を望む斜面からは、土壙墓35基、土器棺墓4基、テラス状遺構1カ所が見つか
っており、遺構内とその周辺からは弥生土器、鉄器及び石器が出土しています。
このことから、この大久保遺跡は、西願寺墳墓群A地点に近い形態が窺われ、弥生から古墳時代へと変化する時期に形成されたのものと推察されております。
エ 中矢口遺跡
昭和55年(1980年)頃の梅園団地の造成工事により、発掘調査がおこなわれた時に発見された遺跡ですが、現存するものは広島市立口田小学校の校庭に復元し保存されている箱式石棺1基のみであります。
この地からは、竪穴式住居跡4軒と口田小学校の校庭に復元保存してある箱式石棺1基が見つかっていますが、住居跡に隣接して箱式石棺が見つかる例は少なく、十分な調査はおこなわれていないこと、周辺の宅地造成などによる地形の変化が著しいため、かっての遺跡がどの範囲まで広がっていたか不明であります。
また、発掘された副葬品などにも欠いているため、明確な築造の時期などを判断しえないといわれていますが、構造や近くの他遺跡の類例から古墳時代の前半期に入るものと推察されております。
この地の近く(現在の梅園団地入り口付近の丘陵先端部)には、通称「オンバンさん」と呼ばれていた岩間から清水の湧き出る箇所がありました。
その昔、この場所には「黄幡祠」(オウバンシ)なる小祠(お社)があって「オンバン」さんと呼ばれていたのかも知れませんが、この遺跡の下には戦時中に防空壕が掘られ、その後の山崩れでこの遺跡の一部が壊れたものと考えられます。
オ 高陽台遺跡群
高陽台遺跡群は、二ケ城山(標高483.2メートル)から、北西に派生する丘陵の尾根上にあって、大字矢口字城前と字道川(どうがわ)にまたがって分布する三箇所の遺跡群(A,B,C)で、A群はA1地点とA2地点に分かれております。
A地点の遺跡は、竪穴式住居跡を中心とした遺跡群であり、B地点は墳墓と住居跡からなる遺跡群でありますが、C群は、草谷の山崎薬師のある尾根の続きの頂上付近にあって、矢口が丘団地の開発工事中に偶然見つかった貝塚であります。
高陽台遺跡群(B)地点は、草谷の山崎薬師の北側の谷をはさんだ向かい側の高台にあって、鍋山(なべやま)の共同墓地に続くやや西側に突き出た位置にあって、この地からは、竪穴式住居跡2基、高床式住居跡1基、墳丘墓1基、墳墓4基が見つかっております。
この住居跡からは、多数の土器片と壺型土器が見つかり、高床式住居跡は6基のピットが確認されていますが、墳丘墓には、土壙1基と箱式石棺2基が認められ、弥生式の土器などが発掘されております。
このうちB地点から発掘された第4号墳と呼ばれる墳墓は、この地の地名から道川山(どうがわやま)の「長七が丘古墳」として現地に復元保存されております。
しかし、その保存箇所に説明用にと建てられている石標には、第6号墳と刻まれていますがこれは第4号墳の誤りであります。
この、箱式石棺は広島市内でも規模の比較的大きなのものと言われ、河原石が使用されているこの地域の墳墓が多い中で、大きな切り石が使用されているとろにこの古墳の特徴が見られます。
カ 上矢口古墳
矢口が丘上下車、南方の加唐池(ががらいけ)に沿い谷川を渡り尾根を登る、徒歩50分とこの所在確認のために調査にあたった人は述べていますが、この地は通称東谷と呼ばれる谷の南側に連なる小高い丘と考えられ、上小田バス停にて下車した場合には、ふじらんど団地内を通り抜け、団地の東側入り口に向かい合う小高い丘の上あたりと見られ、地元で通称「仙人原遺跡」と呼ばれている場所ではないかと考えられますが、沢山の丸い河原石が積み上げらていると言われ、崩れた山の斜面からは土器の破片も見つかったと言われております。
この、通称仙人原遺跡の積み石が、何時のころからだれによって、また、どのような理由で積み上げられたものかは全く不明でありますが、この地では牛馬が死んだときに小石にお経を書きお供えしたとの口伝えもあり、そのことからこの付近の松の木について「経塚の松」と言い伝えられております。
この上矢口古墳群についての学術的な調査は、これまでおこなわれていないため詳細な内容などについてはまったく分かっていませんが、太田川流域から遠く離れた場所にあるため、口田地区ではめずらしいと言われており詳細な学術的調査が待たれるところであります。
キ 弘住遺跡
弘住遺跡は、広島市立口田小学校の裏山に続く尾根筋にあって、その北側の山裾には弘住神社がありJR芸備線が走り、太田川が平行して流れております。
この、弘住遺跡には、太田川流域では最大規模の古墳であると推定されている弘住第1号墳を含む、古墳5基(第1号墳〜第5号墳)と配石土壙、弥生配石遺構各1基が発見されております。
この弘住遺跡からは、縄文土器、弥生土器や石鍬などの遺物も見つかっているほか第2号古墳からは1,731個という大量のガラス製の色調豊かな小玉が見つかっております。
この弘住第1号墳は、比較的規模の大きい前方後円墳と見られておりますが、この
地は私有地であり石室などの構築物が崩れる恐れもあって、土地の所有者から無断で立ち入ることが禁じられております。
この弘住古墳群は、県道のバイバス工事がおこなわれ、古墳群の一部がその工事により取り崩されることから、第1号墳を除く他の4基の調査がおこなわれました。
この時、第2号墳から発掘された多量のガラス製小玉は、弥生時代中期以降に用いられている巻きガラス製法と、吹きガラス製法でつくられたものと考えられておりますが、当時の我が国には無かったと言われているコバルト着色をしたガラス玉が発掘されており、ガラス玉(製品)を輸入したものか、材料を輸入して我が国で造られたものか謎につつまれております。
この大量のガラス玉は、装身具として使用されていたものが、副葬品として埋葬されたものと考えられていますが、1,700個という量は広島市域では最大の量であることが判明しております。
また、古墳時代より前弥生時代のものは「古墳」とは呼ばないで「墳丘墓」と呼ばれているようですが、この弘住古墳第3号墳は弥生時代から続いている墳墓の形態をしており、発掘された副葬品は古墳時代の前期のものであったことから、弥生時代の伝統を重んじる人が古墳時代の始めに構築されたものと見られていて、広島市はもちろん広島県内でも「古墳」としては一番古いもの見られております。
ク 上小田古墳
大歳神社(おおとしじんじゃ・通称ダサーサンと呼ばれている。)のある口田小学校の南にある杉崎山には、上小田古墳が存在したことが確認されております。
この上小田古墳は、組合せ式石棺を内部主体とする円墳であり、5世紀中葉ものと推察され棺内には枕石と考えられる自然石が置かれ、剣や刀などの鉄製品が検出されております。
現在は、住宅が建設されてその古墳跡を見ることができなくなっています。
ケ 松笠山の「湯釜跡」と「山伏塚」
岩海の地蔵堂から松笠山の中腹にある松笠観音へ登る参拝道沿いに、「山伏塚」と呼ばれる場所があります。
昭和8年(1933年)に刊行された「口田村史」には、この山伏塚について「石にて3尺に9尺の穴にて、往古山伏の這い入りたるものなり。」と記され、2基存在することが確認されております。(一部には3基あるとの説もあります。)
その一つは参拝道沿いのやや小高いところにあり、石積みの囲いがありますが入り口と見られるところは狭く、記述されているようにこの場所から人が出入りすることはできません。
この山伏塚と言われる古墳は、古墳時代の前期に属する竪穴式の古墳と考えられていて、その一部が崩れて「口田村史」に記述されている山伏の這い入りたる出入口と呼ばれているのですが、最近の調査によると古墳の内部はかなりの大きな石室となっておりますが、副葬品などの遺物は見当たらないと言われております。
また、地元の長老の話しでは「2丁塚」と呼ばれるところに古墳らしきものがあると伝えられているのですが、この2基(3基かも知れません。)存在すると言われる2丁塚が、松笠観音への参道の1丁から2丁あたりに点在する一連の「山伏塚」のことを指すのではないかと推察されます。
また、4丁塚なるものが存在するとも言われておりますが、はっきりした場所の確認はされていません、しかし言われているこの地付近は、中小田古墳群の一番高い所と合致することから、その中小田古墳群のうち第11号墳〜第12号墳のことを言っていたのではないかと推察されます。
さらに歩を進めて、松笠観音への参道の7丁塚と8丁塚の中間少し小高く盛り上がった場所には、かって硫黄質の温泉が湧き出ていたと言われる「湯釜跡」がありますが、30〜50センチメートル大の礫を積み重なっております。
この場所も、前方後方墳ではないかと見られているのですが、石室の内部は盗掘されており、埋葬品などは不明で詳細な学術調査はおこなわれていません。
「郡中国郡志」によると、この湯釜跡について「湯釜跡、湯坪弐ケ所、松笠山当時安キ郡戸坂村論山ノ内ニ御座候、往古湯湧出申候頃より当村ノ湯相止申候由、古人ヨリ申伝候」と記され、この地より湯が湧き出ていたことを知ることができます。
また、口田村史には「一人の山姿ありて是に一つの不浄物を投じたるにより湧出止まり、是より伊豫の国道後に湧き出たりと伝えられり。」とさらに「道後温泉に小田湯あり」と記されております。
なお、松笠山の中腹にある「松笠観音寺」の境内には、弘法大師が自ら掘られたと言われている清水の湧き出ていた池があった、この池は「龍水の池」と呼ばれこの池の水は、寒い冬でも凍結したことがなかったとも言われております。
コ 中小田古墳群
「卑弥呼の鏡」と呼ばれる銅鏡や車輪石などが出土し、古代国家形成の過程を知るうえで貴重な史料とされる「中小田古墳群」であります。
この古墳群は、松笠山の北西に延びる標高60〜130メートルの丘陵尾根上に点々と分布し、4世紀後半から5世紀末ないしは6世紀の初頭にかけて、形成された古墳群と見られております。
当初10基の所在が確認されていましたが、平成8〜9年におこなわれた調査の結
果、第11号墳〜第13号墳の所在が確認され、さらに平成12年度の調査では第2号墳の北側には第14号墳の存在が確認され、現在では14基の古墳群と第5号墳の東側に存在すると言われる貝塚で形成されていると考えられております。
この平成12年度の調査で見つかった第14号墳を含め第2号、第3号、第4号墳のある一体は中世の頃の山城の跡と見られております。
平成11〜12年には2号墳、3号墳、4号墳の調査がおこなわれ、鉄剣などが見つかっていますが、山城の跡と言われるこのあたりの古墳は、築城のために古墳や石室が崩されていてその形状が明確でないとも言われております。
また、中小田古墳の1号墳と並んで貴重な第2号墳は、最近出没する猪に荒らされて石室は当時の面影がなくなっております。
平成8年(1996年)11月には、この中小田古墳群が国の史跡に指定されているのですが、この中小田古墳を代表する第1号古墳は前方後円墳で、その埋葬施設は竪穴式石室であったことが判明しており、三角縁四神四獣鏡、獣帯鏡などの銅鏡や車輪石、玉類、鉄斧などが出土しております。
この「卑弥呼の鏡」(ひみこのかがみ)とも言われ、学術的にも大変貴重な出土品が見つかった、第1号墳のそばには「将軍松」と呼ばれていた松の木が立っていて麓の中小田バス停あたりからも望むことができ、恰好の目印となっていましたが、その松の木も松食い虫の被害をうけて撤去されました。
この中小田古墳群のある地域は、シジミ、ハマグリ、カキなどの海に育つ貝の殻や土器などが見つかっていることから、古墳時代には瀬戸内海がこの近くまで入り込んでいて、内海交通の一つの拠点であったことが考えられており、この地域での優位な地位を保持しながら形成された背景がある場所として、今後の発掘調査が待たれるところであります。
サ 平野古墳
平野古墳は、一個の独立したドーム状の整美な形をしている横穴式の古墳で、近くの中小田古墳群などに見られる竪穴式の古墳とは異なる形態をしており、古墳時代の後期のものと推定されております。
口田村史に「鎮守の大椎」(1丈5尺、5間)と呼ばれている大木が、この古墳の上にあって、中小田公園内に向けて大きな枝を広げておりますが、根元から幾重にも幹が分かれていて樹齢は200余年とも見られております。
さらに古墳の北側には「あらかし」の大木が、古墳の上には多数の椿の大木があってこの横穴式の古墳を覆っているのですが、この大木には藤の蔦が大蛇のごとくまつわり、藤の花の咲く頃はみごとであったと、この口田村史には記されております。
この平野古墳の南側には石室の入り口が開口していて、その前に平野神社の御社が建立されています。
この平野古墳の石室の入り口について、「郡中国郡志」に「平野山鎮守祠平野神
社の拝殿があり」と記され古くからこの石室の入り口は開口していたことが窺われ
るのですが、神社の建立の時期など古い時代の記録がない、と記されていてはっきりしたことは分かりません。
現在の拝殿は、昭和52年(1977年)9月に建て替えられたものであります。
○ 中小田古墳群の調査
ア 国の史跡指定にもとづく遺構状況確認調査
平成8年(1996年)に国の史跡に指定された中小田古墳群は、当初10基の古墳のあることが確認されていましたが、平成8年(1996年)から始められた、一連の史跡整備にともなう遺構状況確認調査により、新しく第11号墳、第12号墳が発見され、第5号墳と第6号墳の間に第13号墳が、平成12年度の調査では第2号墳の北側に第14号墳が確認され、現在では14基の古墳と貝塚の存在が確認されております。
平成8年の調査では7号墳と8号墳の調査が行われ、平成9年には5号墳と6号墳の調査が、平成10年から4号墳の調査を中心に、平成11年にかけて隣接する3号墳の調査が、平成12年度には第2号墳の調査が行われております。
これまでの調査から、史跡中小田古墳群の規模並びに出土した遺物などについてはその概要が別表の通りであることが判明しております。
平成10年から平成12年にかけて調査が行われた2号墳〜4号墳は、この地が中世の山城跡と見られ、平成12年度の調査で第2号墳(円墳)と新しく確認された第14号墳を含めた一体が山城の跡と見られております。
この山城の構築の際に、4号墳の突出部や3号墳に構築された石室の一部が崩されて古墳としての原型を止めていないと言われております。
この中小田古墳群は、第1号〜第2号古墳のように卑弥呼の影響をうけている前方後円墳から円墳に至る古墳形成の形態は、発掘された遺物と共に、吉備の国や出雲の国とはその性格、内容を異にして、大和(やまと)の国の影響下にあって西の端の位置にあり、安芸の国のルーツをさぐる貴重な存在となっております。
イ 卑弥呼(ひみこ)の銅鏡
中小田古墳(第1号墳)から出土した「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる銅鏡は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が、中国の皇帝から手に入れた鏡といわれているもので、この鏡は全国各地の代表的な古墳から見つかって
おり、近畿地方にあった統一政権が、国づくりに深くかかわった豪族たちに分け与えたと言われております。
中小田第1号古墳は、近畿地方などにある有名な巨大古墳に比べて、その規模は小さいのですが、同じ鋳型で作った鏡が京都府、大阪府、奈良県、兵庫県、福岡県から発見されていて、そこに眠る主が「ひろしま」の代表として各地の有力な豪族と肩を並べるような待遇をうけていたことは間違いなく、「卑弥呼の鏡」は古墳時代の「ひろしま」を代表するものとして、学術的にも大変重要な手掛かりとなるものと考えられます。
このように、中小田古墳群が「大和(やまと)の国の影響下にあって、その西の端の位置にあり」とする説に関して、近年古代遺跡の発見と発掘調査によって、次々と新しい事実が解明され、その度にマスコミなどにより、「邪馬台国(やまたいこく)は九州」説に軍配とか「古代出雲王国の栄光を証明」とか言われ、古代国家が「邪馬台国は大和(やまと)である」とする説との間で論争がおこなわれております。
これらの論説により「卑弥呼(ひみこ)の宮室」「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の謎」などに関して「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の記録の謎説きはいずれかの時期には解明されるものと考えられますが、それぞれの諸説が唱えられる間は、専門の学者による謎解きをする面白さを興味をもって眺めてみたいと考えます。
○ 卑弥呼(ひみこ)の銅鏡が語る古代国家
ア 日本列島における古代国家の胎動
それでは、日本列島において「国家」と呼ばれる姿がいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか、数多くの人々が研究を重ねていますが、当時の国家と見られる姿には、現在のような日本国という概念とはまったく異なり、また、「古代国家」という概念が人々によって色々な考え方もあるため、日本の古代国家の成立の時期についても諸説があります。
その一つに、3世紀頃の「邪馬台国」(やまたいこく)を初代の国家であるとする考え方には、2世紀末の「倭国の乱」(わこくのらん)の収拾の過程において「卑弥呼」(ひみこ)という女王を中心に政治的な纏まりができたことがその考え方の根幹となっているようであります。
その邪馬台国がどこであったか、大和である説と九州であると言われる説などがあってはっきり分かっていません。
大和とする説(新井白石)や九州であるとする説(本居宜長)など、江戸時代の有名な学者がすでに「倭人伝」(魏志倭人伝・ぎしわじんでん)に記載されている社会
の特色や政治の仕組みから「邪馬台国」が古代国家と提唱する人が多くあります。
その魏志倭人伝に書かれている古代国家の始まりに関する謎「倭国の乱(わこくのらん)」を収拾した卑弥呼が大きくクローズアップされるところであります。
イ 倭国の乱(わこくのらん)について
「その国、もと男子をもって王となし、住(とど)まること7、80年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である」**これは、卑弥呼の登場について「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に語られている有名な文章です。**
また、「後漢書」という書物(魏志倭人伝より後に編纂された書物)で「桓・霊の間(後漢の桓帝と霊帝の治世の間の意味で、147年〜188年の間)、倭国大いに乱れ」と書いていて、このことから倭国の乱とは180頃に勃発したものと考えられていて2世紀末のこととなり、3世紀の半ばに「魏の王朝」によって「倭国王」と認定された「卑弥呼」が、この倭国の乱の収拾のために共立された王である重要な史料とされております。
魏志倭人伝に記述されているところから、2世紀末の「倭国の乱」以前にも戦いのあったことは考古学の研究のなかから明らかにされていて、各地の遺跡や古墳から出土する石剣、銅剣や鉄剣など縄文時代とはくらべてはるかに武器として発達していると言われております。
また、傷を受けて人骨や、剣の切っ先が折れて突き刺さった人骨なども残っていて各地の遺跡や古墳から出土しております。
ウ 鉄の供給ルートをめぐる覇権争い(はけんあらそい)について
2世紀末の倭国の乱については、九州の有力者が朝鮮半島の庇護(ひご)のもとにあって、鉄の獲得について優位であったが、この朝鮮半島の有力者(後漢王朝)が弱体化したことが契機となって大和政権が九州の有力者(筑紫政権)を制圧して鉄の供給ルートを掌握したとの説が有力であります。
その九州の有力者との覇権争いについては、北部九州でリーダーシップをとっていた奴国(なこく)であったが、2世紀に入り同じ九州北部に拠点をもつ伊都国(いとこく)の力が大きくなり、邪馬台国がこの伊都国と友好関係をもち、鉄の供給ルートをめぐり権力を拡大していったと言われております。
中小田古墳群のあるこの地方が、当時「海」でっあったとする説もあることを考えると、交通の要所であったことも窺え、鉄の供給ルートの解明とこの古墳群の東側の谷付近で発見されたという「貝塚」の究明とあわせて今後の調査を見守りたいと考えます。
エ 前方後円墳のはじまりについて
倭国の乱の激動のあとにやってくる大きな変化、それが「前方後円墳」の登場であります。
卑弥呼のお墓であるとするこの、鍵穴の形をしたこの墳丘の起源については、多くの学者で論争されていますが、この形が「宮車(きゅうしゃ**中国古代の皇帝が使用していた車**)」を模したものとの説がありますが、この説には古墳時代には車がないことから疑問視されていますが、前方部は車をひく柄の部分と考えることについては現在でも継承されています。
このほか、前方後方墳や突起のあるものなど墳丘の形は色々ありますが、墳墓は祖先の祭祀のためのものであり、墳丘の形や埋葬施設の型式には集団の伝統を保守的に維持するもので、集団のシンボルともなって連携や友好関係の証としていたものと考えられております。
(別表) 中小田古墳群の調査結果表
(平成13年3月現在)
|
区 分 |
墳 形 |
規 模 |
埋葬施設 |
出土遺物 |
第1号
|
前方後円墳
|
30m
20m
3m |
竪穴式石室
|
三角縁神獣鏡
獣帯鏡
車輪石ほか |
第2号
|
円墳
造出し?
|
15m
2.5m
|
竪穴式石室
|
素文鏡
兜
短甲
鉄製武器多数 |
第3号 |
円墳 |
13m |
竪穴式石室 |
鉄製品(剣、鏃など) |
第4号
|
帆立貝式古墳
? |
15m
2m |
木棺直葬
|
剣
斧 |
第5号
|
円墳
葺石 |
12m
1.5m |
石室?
|
?
|
第6号
|
円墳
葺石
三段築成 |
23m
2. 4m
|
石室?
|
?
|
第7号
|
円墳
|
20m
m |
?
|
?
|
第8号
|
円墳
|
20m
m |
石室?
|
?
|
第9号 |
円墳 |
5m |
石棺4基 |
2号石棺玉類 |
第10号 |
円墳 |
5m |
石棺 |
|
|
|
|
第11号 |
円墳 |
20m |
? |
? |
第12号 |
円墳 |
20m |
? |
? |
第13号
|
方墳
|
10 ×7
1.2m |
石棺
木棺 |
?
|
第14号
|
?
|
|
|
H 13.2
|
|
|