ふるさと口田の伝説・伝承
 
 全国各地には、古くから伝わる伝説や口頭による伝承がありますが、ふるさと口田にも昔から伝えられている伝説や口頭による伝承があります。
 
@ 松笠稲荷の狐
  小田の松笠稲荷神社の前横東側に横穴がある、これは稲荷神社のお使いをした狐 の住んでいた穴といわれ、中へ入ると出られなくなるといわれている。
  (この項「高陽町史」より)
  現在は、白龍洞とよばれて昔には白へびが住んでいたといわれている洞穴があり ますが、松笠稲荷神社の前横東側にあると言われる横穴は、稲荷神社から東横に向 かって渡り廊下があり、その先の大きな岩の下に狐の住んでいたと言われる横穴が あるのではないかと考えられます。
A 狐にだまされた話
  むかし一人の若者が生さかなをぶら下げて夜道を家路に急いでいた。後ろから美 しい娘がやってきて肩にふんわりと抱きついた。若者は嬉しくなって顔をよく見て おこうと提灯をかざすと、娘は手拭いで隠しており、さらに顔を見られまいと横に 向き手で隠すようにした。
  「あんたはこの夜中、娘一人でどこへ帰る。さみしかろうから送ってあげよう」 というと、「いいえ、いいの、すぐそこだから」と恥ずかしそうに顔を隠すのであ った。
  若者は、気持ちを落ち着け、そこに座って考えた。悪い狐がよく悪戯をして御馳 走を奪い取るという話を思い出した。ひょっとするとその悪戯狐ではないかと思う と身体中が寒くなり、無我夢中で我が家へ走って帰った。小田での話である。
  (この項「高陽町史」より)
  松笠山の狐については、小田杉崎山の「樽佐山稲荷神社」に通ってきていたとの 言い伝えもあります。また、松笠山の中腹には「岸山狐城」と呼ばれる山城の跡の あることも知られていて、沢山の狐が生息していたのではないかと考えられます。B 天狗の足跡
  小田の松笠稲荷神社の裏に大きな岩がある。それに楕円形のくぼみがあるが、こ れはむかし天狗がつけた足跡であるという。
  (この項「高陽町史」より)
  現在、天狗の足跡のついている岩と見られる大きな「岩」をご神体として、三鬼 神大権現のお社が建立されている。
 
  この、祭神三鬼大権現は、当山の鎮守で時眉追帳摩羅(ジビツイチョウマラ)の 大日如来、虚空蔵菩薩、不動明王の化身にして、智恵と福徳、降伏の徳を司り大郎 坊、次郎坊を初め、日本国中の大小天狗を眷属に随え、神通力を以て衆生の心願を 満足せしめ給う威徳広大霊験顕著な神である。といわれている。
C 狸に化かされた話
  むかし、ある人が真夜中に広島からスタスタと歩いて帰っていた。中小田まで来 た時に坊さんに出会った。道の右によれば右によって来、左によれば左により、通 る邪魔をする。上を見るとだんだん大きくなり、下を見るとだんだん小さくなる。  気の強いその人は変だと気がつき、道の小石を拾い上げて、坊さんめがけて投げ つけると、バサッ、チャプンと道の下の小川に飛び込んで、後は何事もなかったよ うに、道は秘録なり通ることができたという。
  (この項「高陽町史」より)
D 弘住神社の馬場跡
  小田の弘住神社にあって、明治30年(1898年)ころまでは弘住神社の氏神 祭の時に競馬がおこなわれたという。
  中深川西塚にも馬場があったといわれていて、亀崎神社の祭礼の行事に関係があ ったのではないかと考えられています。(この項「高陽町史」より)
E 弘住神社の灯台
  弘住神社の境内には石の「灯台」がある、この灯台はもともと弘住の渡しと呼ば れていた太田川の河川敷にあったものですが、太田川の河川改修により現在地に移 されたものです、この弘住神社の摂末社として、海の守り神とも言われる「金昆羅 神社」がこの地に建立されている。
  その昔、広島が太田川のデルタ地として形成される過程で、現在の可部(河戸) あたりまで「海」であったと言われ(村岡幸雄先生の郷土史研究資料より)、可部 の海、古市の海、広島デルタの海などの存在していて、可部の海が消えて陸上にな り、矢口と安川を結ぶ線を中心として「古市の海」が形成されていた。と述べられ ているが、可部にある鉄製の灯台と共に川には大変めずらしい「灯台」である。
F 弘住神社の狛犬は安産の神さん?
  各地の神社には「狛犬」さんがあります、狛犬と呼ばれていて「犬」と考えられ ますが、私たちが見かける「犬」とはその姿、形は似つかわしいのですが、本当の ところは何でしょうか?
  この狛犬は、悪霊払いの狛犬〔高麗犬(こまいぬ)〕で獅子とも朝鮮の高麗から の伝来したものといわれております。
 
  また、密教の「阿吽」(あぎゅう)の思想とも合致して日本独特の狛犬が誕生し たともいわれております。「阿吽」の「阿」は呼気を、「吽」は吸気を表し、万有 の資源と究極を象徴しているともいわれております。
  当初は、室内に一対として魔除けのため、凡帳や御簾の裾に重しとして使われて いたが、次第に神社や寺院の守護的な役割を担って、外部に置かれるようになり腐 らないようにと木製から石へと移行したといわれております。
  悪霊払いとしては、エジプトのピラミッドの前にあるスフィンクスなどが有名で すが、全国各地の狛犬にはそれぞれ特徴があり、弘住神社の狛犬は子ずれの狛犬で 安産の守り神として崇められております。
  現在は、初代の狛犬さんから二代目に引き継がれているのですが、平成13年3 月24日の「芸予地震」により初代の狛犬さんが転倒し破損をしました。
G 松笠観音の境界は相撲で決めた
  松笠観音堂は、松笠山の中腹にあって戸坂と小田の境界線上にあって、その境界 を定めたことについて、その昔小田村と戸坂村の若い衆が相撲をとって境をきめた といわれており、勝利をおさめた小田村となったとの言い伝えがある。
  大正年代のこの松笠観音の住職であった岩坪玉吉氏は、当時70才の高齢であっ たが、19才の頃には福山に出て当時の関取朝日山に知られて、力士となり「島ケ 谷」と名乗って名声をとどろかせたとの伝えがあり、戸坂村と相撲をとった若い衆 のなかに交じって戦った本人かも知れない。
    (この項「戸坂怱田老人クラブ」の記録より)
H 「幸次」さんが夢で見たお地蔵さん
  この地蔵堂については、古文書に記されている「堀出院仏孝寺」とも呼ばれる説 があり「祭日は、7月24日、堂宇・一間四方ご本尊・地蔵尊を祀る」とある。
  この地蔵堂は「幸次」という人が願主となって建立したものであるが、この幸次 という人、夢の中で仏様が現れ「きれいな清水の湧くところの下を掘ればお地蔵さ まがおられる、そのお地蔵さまを祀ってくれれば願いごとかなえてつかわす。」と お告げがあった。との言い伝えがあり、湧き出る清水で目を洗ったところ眼病が治 ったといわれている。
  この幸次という人が、地蔵さまを掘り出した清水の湧き出ていたと言われる場所 が現在地蔵堂が建てられているところともいわれており、「仏光堂」と呼ばれてい るのかも知れない。
I 松笠山の「湯釜跡」と「山伏塚」
  小田岩海(おだいわかい)の地蔵堂から、松笠山の中腹にある松笠観音へ登る参
 
 拝道沿いに、「山伏塚」と呼ばれるところがある、昭和8年(1933年)に刊行 された「口田村史」には、この山伏塚について「石にて3尺に9尺の穴にて、往古 山伏の這い入りたるものなり。」と記され、最近の調査によるとこの「山伏塚」は 古墳時代の後期の竪穴式古墳ではないかと見られていて、3基存在することが確認 されている。
  その一部が崩れて「口田村史」に記述されている山伏の這い入りたる出入口と呼 ばれているところですが、古墳の内部はかなりの大きな石室となっている。
 また、地元の長老の話しでは「2丁塚」と呼ばれていた箇所ではないかと考えら
 れている。
  その他に、4丁塚なるものが存在するともいわれているが、はっきりした場所の 確認はされていない、しかしいわれているこの地付近は中小田古墳群の一番高い所 と合致することから、その中小田古墳群のうち第11号墳〜第12号墳のことを指 していたのではないかと推察される。
 さらに歩を進めて、7丁塚と8丁塚の中間少し小高く盛り上がった場所には、か
 って硫黄質の温泉が湧き出ていたと言われる「湯釜跡」があり、30p〜50p大 の礫を積んだ積石式の古墳である。
  この場所は、前方後方墳と見られているが石室の内部は盗掘されており、埋葬品 などは不明であります。
  「郡中国郡志」によると「湯釜跡、湯坪弐ケ所、松笠山当時安キ郡戸坂村論山ノ 内ニ御座候、往古湯湧出申候頃より当村ノ湯相止申候由、古人ヨリ申伝候」と記さ れ、この地より湯が湧き出ていたことを知ることができる。
  また、口田村史には「一人の山姿ありて是に一つの不浄物を投じたるにより湧出 止まり、是より伊豫の国道後に湧き出たりと伝えられり。」とさらに「道後温泉に 小田湯あり」と記されている。
J 龍水の池
  松笠山の中腹にある「松笠観音寺」の境内には、弘法大師諸国修業の際に立ち寄 られて、自らお手堀りされたといわれる清水の湧き出る池があった。
  弘法大師の功徳により四百四病に効くともいわれていたこの池の水は、冬でも凍 らないといわれていたが、この池も枯れて今では広い空地となっている。
  この池の近くに、現在井戸が掘られラドンを含む清水を求めて、お参りする人も 多く、この井戸のある裏山の尾根づたいに大きな割れ目のある岩があって、一説に は井戸に通じる水脈がその割れ目にそってあり、これまで一度も水枯れしたことが ないといわれている。
 
K 松笠観音の「和尚松」
  松笠観音には「観音大松」(一丈三尺、十八間、三百餘年。)と呼ばれる大きな 松の木があって、この付近には沢山の大きな松が林立していたとの記録もあります が、現在は、この大松も切り倒され残った松は数本に過ぎず、この一帯の巨樹が広 島市の天然記念物に指定された昭和59年(1984年)には、この大松も松食い 虫の被害で枯れてしまったため、枯れ木として記述されている。
  その昔、この付近に「和尚松」といわれていた松の大木があって、この松の木が 伐採され売られることとなった。
  しかし、この松の木は和尚さんのお墓の花として植えられていたもので、その松 の木を伐採した木挽二人が共に怪我をしたため、松の木の買い手が現れなかったと いわれています。
  このような話があることから、平成3年(1991年)9月の台風で倒れた「観 音大杉」は、倒れた巨樹を再利用されることもなくそのまま現地に保管された。
L 夜山のお地蔵さん
  古くから伝わる風習として、花嫁さんが嫁ぐとき「末長く居すわるように」との 願いを込めて近所の若い衆が、お地蔵さんを担いでお祝いに訪れていたとか、いつ
  の日かこの風習も忘れ去られて、道の側など人目につくところに安置されるように  なったが、おそらく道路の改修が行われるたび、一か所に集められるようになった  のではないと言われている。
  その中のひとつ、「夜山の地蔵さん」については、中国郡志によると「**一、 夜山地蔵堂一宇梁四 尺桁一間 片葺**、文政の頃(1818年〜1829年) には、落合村と矢口村の境の夜山の峠にあった、いつの頃か不明であるが、山崎薬 師の境内に他の地蔵さんと共に移された。」と記載されている。
  現在、この草谷の山崎薬師の境内に安置されているお地蔵さんは、夜山のお地蔵 さんを入れて6体あるが、このうち、首がとれているお地蔵さんが夜山のお地蔵さ んと呼ばれている。
  このことについて、地域の古老の話では「夜山の峠」は大変寂しいところであっ て、夜な夜な追いはぎが道行く人を襲い困らせていたが、あるときこれを見ていた お地蔵さんがその追いはぎを叱ったところ、その追いはぎに叩かれて首がとれた、
 との言い伝えられている。
M 梶垰の「いぼ地蔵さん」
  このお地蔵さんは、宝永8年辛卯年(1711年)5月24日、世並屋市郎左衛 門という人が建立されたといわれ、この人は大阪の人で広島に居住して薬種の商い
 
 に成功し、後に小田のこの地に移住した時に建てたものといわれています。
  この「いぼ地蔵さん」について、お地蔵さんの前に供えてある花立ての「水」い ぼにつけると治ると信じられている。
N 仙人塚遺跡は、牛馬のお墓
  矢口一が谷には「仙人塚遺跡」がある、この仙人塚遺跡については地元では「千 人原遺跡」とも呼ばれて、丸い河原石が多数積み上げられていると言うが仙人塚遺 跡の積み石が、何時のころから誰れによって、また、どのような理由で積み上げら れたものかはわかりませんが、「經塚松、矢口村にあり。牛馬の病に小石に經を書 き此塚に埋もれば應ありといふ(藝藩通志)」と記載されていて、同一の場所であ るかもしれません。また、この場所が上矢口古墳の所在地ともいわれていて今後の 学術的な調査により解明されるのではないかと考えます。
O 日清戦争の記念樹(棗の木)
  矢口教蓮寺前の川(矢口川)に一本の棗(なつめ)の木がある、この木は、明治 28年(1895年)日清戦争が終結し講和条約が締結されたことを記念し、当時 の清国から苗木を持ち帰り記念樹として植えられたものといわれており、その当時 は数本の苗木が植えつけられたといわれている。
  現在残っている棗の木は、その時に植樹された木の実から新しく芽をだした二世 であるといわれ、現在は一本のみ残っていますが、かなり樹勢は弱っております。P 小田定用水の取水口と「幻の五重の塔」
  友竹瀬尻山の突端に「トウノダン」といわれたところがあった、この地は太田川 をせき止め小田定用水の取水口があったところである。
  このあたりは山の突端が太田川に深く落ち込んだところであったが、矢口部落会 所有の山であるこの友竹瀬尻山について、「この山中には、塔の段と申す地あり、 五重塔跡在り。何寺の申受は相知不申言々」と古い書物(郡中国郡志)に記され、 「宮島の五重の塔が此處に建てありしものなりと古老は言へり」と口田村史には記 述されている。
  このことから、この地が「トウノダン」と呼ばれていたのですが、この友竹瀬尻 山の麓にその取水口があった小田定用水について、矢口川や絵坂川と交差するとこ ろでは、その川底の下を潜り、弘住神社横から小田地区へと流されていて、現在は 弘住神社の横から太田川の水をポンプアップして、矢口地区では供用していません が、なぜ矢口川から取水せず遠く友竹瀬尻山の麓に取水口を求めたものか、この太 田川をせき止めることは難工事であったようで「毎日數十隻の河舟を雇ひ計畫所に 投石すること久しきも投石は水上に波紋を亂すのみ。」と記されております。
 
  また、この小田定用水を造り太田川から水をひくことについて、「玖の円正寺の 前の田は、むかしは水はけのよい良田であった。寛文のころ、小田から太田川に堰 を築き田へ水を引きたい、と承諾をもとめててきた、玖では相談した結果、小田で 堰をつくったからといって別に差しさわりはあるまいということで、承諾の返事を したのであった。ところが小田に堰ができてみると、玖の田は水はけの悪い田にか わってしまった。」と高陽町史に記録されている。
Q 小田の土手と「胡麻の種」
  当時太田川にはほとんど川土手がなく、太田川が大雨のたびに氾濫して小田の地 はいつも洪水に見舞われて、荒れ果てた僅かな土地で農作物も十分なものが作るこ とができない状況で造られた土手は「馬が小便ばりゃ小田の土手は切れる切れてな るまい胡麻の種」と言われているように、太田川の氾濫の都度決壊する大変貧弱な 土手であった。
  その土手で隔てられた小田には、水田が少なくゴマやアワしか作れない土地でも あった、土手の決壊によって翌年の植えつけようとするゴマやアワの種さえ不自由 する状態であったことから、土手の決壊によってゴマの種が流されないようにとの 言い伝えとして、僅かな農作物の種であっても大切にしなければならないとの意味 から、このように呼ばれていたのかも知れない。
R 小田村の田んぼの稲の育苗に供された「薦口之水」
  口田村史のなかに「薦口之水小田村爲苗代水乞得之掘新水道也矢口村除用水之時 可取之雖然不斷左全不可取之爲後年刻石證爲己」(寛文二甲寅稔 岩田長右衛門) と記載され、小田地区の水田に水を引くために矢口川から新しく水源となる用水路 がつくられたものと考えられる。
  矢口川にかかる「矢口橋」の下にある2か所ある取水口の一つから、現在のJA 広島市口田支店の前を通り、口田村役場(現在の口田幼稚園)の北側に抜け、口田 小学校の用地の下をトンネルで潜り、現在は埋め立てられて口田小学校のグランド となっているが、沢山の鯉やふななどが飼われ、戦時中には食用に供した蛙もいた 鳥越え池に取り込んでいた用水路のことを言うのではないかと考えられる。
  この口田小学校のグランドの下のトンネルには、昭和20年(1945年)8月 6日に広島市に原子爆弾が投下されたとき、小学生達が防空壕として利用したトン ネルで、子ども達が容易に立ち入ることのできた。
S 鳥越え池の5本の瓶
  口田小学校の校歌にも歌われている「鳥越え池」ですが、現在は小学校の用地と して埋め立てられてその姿をみることができません、かってのこの池は9反7畝も
 
 ある大池であった、と古い書物には記されていて、この池の真ん中には5つの瓶が 埋められているといわれているとも書き残されています。
  このことについて、何時ごろ誰が何の目的で埋めたものか、詳細な記録がなくは っきりしません。
〓 二級の滝
  口田村大字矢口奥山路の傍に「二級瀧」があると言う、「雄瀧一丈。雌瀧三丈
 巌に懸り美觀を呈す。」と口田村史には記されております。
  この「二級の瀧」とは、矢口川の上流一ケ谷橋から東に向かって延びる谷川の上 流にあって、雄瀧(おんだき)は水しぶきを飛ばし流れ落ちる水が力強い男性の姿 を想定させる勇壮な景観を呈し、雌瀧(めんだき)は、大きな一枚岩の上を静かに 滑り落ちるように流れる落ちる水が、しとやかな女性の姿を想定させ、名のとおり この口田で隠された名勝地として伝えられております。
  しかし、この谷には多くの「まむし」が生息しているといわれ、現在は人目に触 れることも少なくなり、口田地区に残された秘境の一つになっております。
〓 矢口の太夫さん
  大変忙しい人のことを「矢口の太夫さん」と呼んでいる。そのむかし小河内(安 佐町)には太鼓をたたく上手な太夫さんがいて、久地(安佐町)には笛を吹く太夫 さんがいた。
  矢口の太夫さんと一緒になって、各地を回っていたがお互いに忙しく、しかたが なく矢口の太夫さんは、自分で舞を舞いながら自らが笛を吹き、太鼓をたたいたと いわれて「うったりもうたり」(打ったり、舞ったり)する人、すなわち何もかも おこなう大変忙しい人のことを「矢口の太夫さん」と呼び、人まかせにできない忙 しい人の代名詞になっている。
  (この項、安佐町の伝説より抜粋)
  また、矢口の太夫さんに関して、なぜ「矢口」とよばれているのでしょうか?こ のことについて、太田川に高瀬の渡しと呼ばれる場所があって、「渡し船」による 交流が行われていたところがあります、この地は西側の川岸近くまで家並みが続い ていて、東西の交通の要所として栄えてきたところであります。
  このことから、太田川の西側には口田村について、矢口の名前が一般的に使われ ていたのではないかと考えられておりますが、一説には家庭内にあって「主婦」は 大変いそがしい人であります、その主婦についてまたの名を「家内(かない)」と 呼び、この家内(かない)が「やうち」に変じ、「やうち」が「やぐち」になまっ たのではないかとも言われております。