口田村の学校教育の足跡
         (口田尋常高等小學校から口田小学校に)
 
 
○ 沿革の大要  (この項 口田村史より)
 本村は元矢口村小田村の2ケ村なりしが、明治22年4月。市町村制實施の際合併して、口田校と改稱したるものなり、随て學校の如きも、両村に各1校宛設置しありしが、明治24年4月両校を合併して1校となしたる以來繼續して今日に至りたるものなり、此長年月之時世の變遷と共に學事の沿革も多かりしならん。
 然るに、明治21年以前に於ける本村學事沿革を記せる書類の如きは、天災其他の事變のため、紛失せるもの多し今本校の沿革を叙せんとするに方り、精確なる記録の據るべきなし。
 往々備に殘れる書類の片々と、當時就學せし人々等に就きて調査し得たる材料を蒐集して、本校學事の沿革の概要を録す。(原文を写す)と口田村史には記されております、続けて口田尋常小学校の前身と考えられる小学校の設立から今日に至る経過の概要についても、次の通り(口田小学校の誕生と歴史)記述されていて、その設立の日と言われる明治6年(1873年)から数えて今日(2001年)までに128年の歴史があることが判ります。
 
  (口田小学校の誕生と歴史) **この項 口田村史より**
 明治6年2月第7大區8小區矢口村○○番地に第4大區、廣島縣管内第4中學區第7大區矢口村第220番小學を設置す是れ本校の創立なり。
 同年小田村○○番地に第四大學區、廣島縣管内第4中學區第7大區小田村第225番小學を設置す。明治11年、矢口學校、小田學校と改稱す。
 明治18年4月矢口小學校を矢徳小學教場、小田小學校を矢徳小學分教室とす。明治20年4月矢徳簡易小學校と改稱し修業年限を3ケ年とし、科目を修身、讀書、作文、習字、算術の五科とす。小田分教室を廢止して矢徳簡易小學校に合併す。矢口村矢徳簡易小學校を轉履し小田分教場廢止の結果児童増加の爲め。
 明治20年4月中央なる大字小田1303番地に間口11間、奥行4間の校舎を建つ。明治31年頃までは本校卒業生の高等小學校に入學せんとする者は沼田郡立「祇園村」沼田高等小學校に通學したりしが是れより狩小川、深川、落合及び口田の4ケ村聯合建立の「深川村」高陽高等小學校に通學したり。
 明治40年3月、小學校令改正、義務教育年限を6ケ年に延長せられ、翌年4月5學年級、42年6學年級、明治43年高等科を併置す。其頃には安藝郡戸坂村に在る
 
安藝高等小學校へも通學するものもありき。
 されば、児童の増加に伴ひ、舊校舎を廢止し同所を擴張し是れを改築して、敷地聰坪數792坪建坪206坪、間口16間、奥行5間の建築を2棟に改築し事務室並びに7教室とし、明治43年11月16日新築校舎起工式を舉げ、44年5月10日落成式を舉げたり。
 時の校長は蘆田勝一氏なりき又夫より児童の増加に伴ひ校舎増築の止むを得なきに至り、種々協議を重ねたる結果、間口18間、奥行5間、2階建の1棟を舊運動場に建築し、運動場としては校舎の西南に面する鳥越池を埋立して約500坪を得たり。 其の増築の新校舎落成式を昭和3年10月21日を以て舉げたり。現に學級數8、理科室、唱歌室、裁縫室其他備はざるなし。時の校長は石山挂一氏なりき。
 
○ 普通教育の發達  (この項 口田村史より)
 本村普通教育の發達は、實に如上記述する處の如し。今や邑に不學の家なく、家に不文の輩なく、厮養の徒と雖も亦能く歴史を談じ塵を説く、鳴呼盛なりといふべし。 茲に小學校教育の梗概を叙し終わり筆を擱かんとするに當り。更に其制度の沿革を一瞥するも亦敢て無益の業にあらざるべし。いでや是より制度變遷の徑路を回顧せんか。
   (変遷)
 1 明治4年7月   文部省創設(1871年)
 1 明治5年8月   學制發布
 1 明治7年4月   小學校教則を制定せらる。當時の學級は8級にして毎級修            業期間を6ケ月と定め4ケ年にして卒業す。
 1 明治11年9月  本縣小學校教則及校則を發布せらる。課程を上下二等に分            ち下等は8級上等は二級とし毎級修業期6月なること前の            如し。此の時試驗を分ちて尋常試驗、定期試驗、卒業試驗            の3とす。
 1 明治12年9月  學制を廢し更に教育令を發布せらる。當時の必修科目は讀            書、習字、算術、地理、歴史、修身にして、土地の状況に            より、圖書、体操、唱歌、又は理科の大要を加へ女子の爲            には裁縫を加ふることを得しめらる。
 1 明治14年9月  改正教育令に基き小學校校則綱領を規定せらる。
 1 明治15年4月  教則綱領に基き、本縣公立小學校則及試驗規則を達せらら            る。學科を初等、中等、高等の三等とし2ケ年とす。
 
 1 明治16年4月  小學校則を改正せらる。
 1 明治17年6月  8週間小學校教員の講習を開設し始めて教育學、心理學、            學校管理法、教授法を小學校に適用するに至る。
 1 明治18年8月  改正教育令を頒布せらる。此の改正により小學校と小學教            場との二種に分ち小學は授業料を懲収することとなれり。 1 明治19年9月  小學校則改定の結果小學校を尋常小學校と高等小學校及小            學簡易とに區別せらる。從前の小學教場は小學簡易科と改            稱す。
 1 明治22年1月  改正小學校令發布、小學校を分ちて尋常小學校、高等小學            校の二とし義務教育年限を4ケ年又は3ケ年とせらる。
 1 明治37年4月  この年より、國定教科書を使用せしめらる。
 1 明治40年3月  小學校令改正、義務教育年限を6ケ年に延長せらる。
 1 明治41年4月  この年より、尋常小學校は修業6ケ年となれり。
 
○ 安佐郡口田国民学校の誕生
 昭和16年(1941年)4月、これまでの口田村尋常高等小学校は新しく「口田国民学校」と改められ、初等科の修業年限が6か年に、高等科が2か年となった。
 この年12月には第二次世界大戦に日本も参戦することとなり、戦時下の子ども達の生活は「勝つまではほしがりません」を合言葉に、耐乏生活を強いられ学用品も殆どが配給制で皆に行き渡るだけの十分な量はなかった。
 国民学校での6か年間の歩みを眺めてみると、この年の初等科一年生の教科は、修身、国語(読方、話方、書方)、算数、体操、音楽、図画と工作で、第1学期の評価の方法は甲・乙・丙であったが、第2学期からは綴方、習字が新しく加えられ評価方法も優・良・可方式に改められた。
 2年生からは、読方、話方、書方、綴方が国語に統一され、4年生から理科が新しく加わっている。
 昭和20年(1945年)8月6日広島市に原子爆弾が投下され、連合国軍を相手に3年有余戦った戦争も、同年8月15日に日本国の敗戦により終結した、この戦争の終結により学校教育にも大きな影響があった。
 この年には、当時の5年生の教科の中に国史、地理、武道が新しく教科に加わっているが、終戦後の第3学期からは修身、国史、地理が、武道は第2学期から廃止されている。8月6日の原子爆弾が投下された日からは、その原子爆弾により避難してきた被爆者のために口田国民学校の教室の一部は臨時の収容所となり、地域の人に交じ
 
って生徒も動員され被爆者の看護にあたっため、この年の8月には8月6日の軍馬の草刈りのための登校日を含めて学校への出席日数が21日となっている。
 翌21年からは6年生の教科の中で、修身が公民に改められ、国史、地理と共に第2学期から復活しているが、評価方法には優、良、可方式で変更はなかった。
 
○ 6・3・3制の始まりと新制中学
 昭和22年(1947年)の改正により、新しく小学校6か年、中学校3カ年、高等学校3か年の6・3・3制の学校制度が始まった。
 口田国民学校初等科は口田小学校に、口田国民学校高等科は口田中学校に改められ新制中学校と呼ばれて、旧制の中学校と区別されたが、この年に誕生した高陽地区での新制中学校は口田のほか、落合、深川、狩小川と後に安芸町に併合された福木中学校の5校であったが、昭和24年高陽中学校の新設により口田、落合、深川、狩小川の各中学校は廃止されて新設された高陽中学校に統合された。
 6・3・3制の新しい制度化による新設された口田中学校は、口田国民学校の高等科が使用していた教室を使い、口田国民学校高等科1年生が新制中学の2年生に編入され、口田国民学校初等科6年を終了した生徒が新設された新制中学の1年生として入学した。
 
○ 口田實業補習學校  (この項 口田村史より)
 大正2年4月29日、口田尋常高等小學校に「口田實業補習學校」に付設することが認可された。
 
○ 口田青年訓練所  (この項 口田村史より)
 大正15年7月1日、口田實業補習學校に「口田青年訓練所」が併設されることが認可された。
 
○ 口田村女子補習學校  (この項 口田村史より)
 昭和4年6月より、口田實業補習學校に併設して設置されることが認可された。この女子補習學校は農業補習學校規定により實業に従事する者に必要な知識、技能を授けて国民生活に必要な教育をすることが目的で設置され、課程を前後の2期に分け、それぞれ修業期間を2年と氏、課目は修身、国語、数学、裁縫、家事などになっており、前期の入学資格は尋常小学校の卒業生が、後期には高等小学校の卒業生又は前期の卒業生が入学できることとなっている。
 
○ 口田村新制中学の高陽中学校への統合
 昭和22年(1947年)に新しい教育制度にかわり、新しく誕生した口田村新制中学校は、当初の1年生は2クラス、2年生1クラスであったが、1年生の生徒数は男女あわせても40名程度であった。
 国民学校高等科の1年生は、新制中学では2年生になりました、新しく誕生した新制中学校の校舎は、当時の国民学校の南側の校舎を使用していた。
 したがって、運動場は小学校と一緒に使用していたのですが、中学校といっても生徒数は少なく、その頃にはまだ幼稚園もありませんでした、また小学校の中庭も広く使えていましたので不自由することはなかった。
 昭和24年(1949年)4月には、隣村の落合村、深川村、狩小川村と一緒になって「高陽中学校」が誕生して、口田中学校や隣村の落合中学校などは僅か2年間で廃校となった。
 昭和24年(1949年)に誕生した「高陽中学校」は、その後生徒数の増加により新しくできた真亀地区(高陽A団地)に「落合中学校」を新設して分割、その後この落合中学校も生徒数の増加により「亀崎中学校」に分割、さらに「口田中学校」にと相次いで分割されて現代の姿となっておりますが、現在の口田中学校、落合中学校は、昭和22年(1947年)に誕生し、昭和24年(1949年)3月に廃校となった口田中学校や落合中学校とは異なります。