ふるさと口田の生い立ち
          (矢口村・小田村から口田への変遷)
 
  ○ 高宮郡矢口村・小田村の変遷
 
○ 安藝の国高宮郡について
 安藝の国は、沼田、加茂、安藝、佐伯、山縣、高宮、高田、沙田(ますだ)の八郡であったが、その後、安藝郡が安南郡と安北郡とに分かれ、佐伯郡が佐東郡と佐西郡に分かれ、沼田郡を豊田郡に、高宮郡が高田郡にそれぞれ併合された。
 寛文4年(1664年)には郡名復古の命があり、安藝、佐伯の両郡名が再び戻され、この時安北郡は高宮郡に、佐東郡は沼田郡となっているが郡境は乱れていたと言われております。
 明治31年(1898年)には、郡制の改変に伴い沼田郡と高宮郡を併合し、旧安北郡の「安」と旧佐東郡の「佐」をとり「安佐郡」が誕生したのであります。
 この安佐郡名については、その後広島市への合併に伴い消滅したのですが、広島市の区制の施行に伴い、旧沼田郡に所属していた地域は「安佐南区」に、旧高宮郡に所属していた地域は「安佐北区」になりました。
 
◇ 明治22年の町村制度
 口田村の村名は、明治22年(1889年)4月に高宮郡矢口村と小田村が合併した時、矢口村の「口」と小田村の「田」を併せて命名したものと言われているのですが、郡中国郡志に教蓮寺に関する記述文の中には、この矢口村について「藝州安北郡八口村」とあり、古老の話では矢口の初めには家八軒あって「八口」と称したものが後に「矢口村」と称するようになったとあり、また、藝藩通志には「矢口村もと小田村と一村なり」と記されていて、矢口村はもともと存在せず小田村の一部であったとも受けとめられます。
 口田村の誕生より前、明治4年(1871年)11月には、戸長制度なねものがあって、その所轄地域にも大小区と呼ばれる制度があり矢口村・小田村は、岩上村と三川村の東野・中筋を含めた区域でもって第66区(大区)を形成していた。
 翌明治5年(1872年)4月に、岩上村が当時の諸木村、末光村、玖村と合体して第7小区を形成し、矢口村、小田村は、三川村(東野・中筋)とともに第8小区を形成した記されております。
 明治17年(1884年)7月には、矢口村と小田村により連合の戸長による所轄制度となり、連合戸長役場が矢口村に設置された、とあります。
 
◇ 口田村の誕生と歴代の村長さん
 明治17年(1884年)の連合戸長役場が矢口村に設置され、幾多の制度の変遷の後、明治22年(1889年)4月1日から施行された町村制度により、新しく口田村が誕生し、これまでの連合戸長役場がそのまま口田村役場となったのですが、この時の高陽地区には口田村のほかに狩小川村、深川村(落合は深川村に含まれる。)が同時に誕生しております。
 この後、昭和30年(1955年)3月には周辺の狩小川村、深川村、落合村と合併して高陽町となり、口田村の歴史は終わり、昭和48年(1974年)3月には広島市に編入して高陽町も幕を閉じることとなったのであります。
 明治の始め頃の小田村役場は、字西久保松本宅に、矢口村役場は字中道増田宅にあったと記録があり、小田村役場はその後字松ケ迫に、矢口村役場は字菖蒲迫から教蓮寺、字高田谷口宅、字金信荒瀬宅にと転々と移転し、明治33年(1900年)に字菖蒲迫楠原宅にもどり、明治38年(1905年)には、字松ケ迫に新設されたと口田村史には記録されていますが、明治22年(1889年)には小田村と矢口村の連合戸長役場が矢口村に設置されていて、口田村の誕生と共にこの連合戸長役場が口田村役場として使用されたとありますので、若干の時代の流れに相違する記述があります。
 その後、広島市の建物疎開により、昭和18年〜昭和19年頃に広島市内の旧役所が解体され、この建材を利用して口田村役場の建て替えが行われました。
 このとき、口田村役場は2階建ての近代的な事務所に改まり、役場の玄関を道路に面した場所に拡張、移転しました。
 この村役場は、昭和30年(1955年)に高陽町に合併するまで口田村役場として使用されていました。
 高陽町に合併後にも役場支所として一時期使用されていましたが、その後この支所も廃止され現在ではこの用地は口田幼稚園として利用されております。
 明治初年(1868年)から、口田村制施行までの戸長制度時代の戸長には、山村松之助、金丸文之助、松本武左衛門、増田與三左衛門の名前があります。
 明治22年(1889年)からの口田村政執行時以降の歴代村長は、以下のとおりでありますが、一部資料の不足などによりその就任の時期など、はっきりしないところもあります。
 金丸文之助さんの後をうけて就任した松本武左衛門さんが、初代の村長さんと言われておりますので、この時期が明治22年(1889年)のこれまでの連合戸長から新しく口田村が誕生した時期になるのではないかと考えられます。
 
     (口田村になってからの歴代の村長)
  初代村長 松本 武左衛門(明治22年矢口村と小田村の合併により誕生)
  2代村長 増田 與三左衛門
  3代村長 田中 太一郎
  4代村長 山野 定治
  5代村長 河内  豊(原爆により行方不明となった)
  6代村長 中田 實蔵(公職追放令により最短記録の村長)
  7代村長 保田 達磨
  8代村長 川本 才一(公選最初の村長)
  9代村長 村本 里律
 
      (高陽町合併) 町長 山村  弘
 
 なお、昭和20年(1945年)8月6日広島市に原子爆弾が投下された時、当時の口田村の河内豊村長さんは広島市内に出張中で、この原子爆弾の投下により行方がわからなくなりました。
 口田村役場の関係者は、広島市内に村長さんの捜索に幾度か出掛けていますが、行方は分からないまま、当時口田村役場の助役であった中田實蔵が同年10月19日付で口田村長に就任した。
 しかし、昭和21年(1946年)1月1日付の「公職追放令」と言う法律の施行により、昭和20年(1945年)12月28日付で村長の職を追放され退任しております。