口田の神社・仏閣・お地蔵さん
 
 ○ 口田にある神社
  @ 弘住神社
    その昔は、「小田之庄八幡宮(おだのしょうはちまんぐう)」と呼ばれてい
   たが、その後弘住八幡宮(こうすみはちまんぐう)と改め、明治6年(177
   3年)に現在の「弘住神社」に改称されました。
    建立の時期は不明でありますが、神社の入り口には建立700年の記念碑が
   建てられています。
    弘住神社は、八幡神社として小田、矢口から中筋、東野、古市あたりまでの
   地域の守り神として崇められ、境内の狛犬(こまいぬ)さんは、他のお宮には
   例を見ない子どもを連れているため、「安産の神さん」としてお参りする人も
   多く、新旧2組の狛犬さんが神社の境内に鎮座していたのですが、平成13年
   3月の芸予地震によって古い狛犬さん(初代)は壊れてしまい、その年の10
   月には第3代目となる狛犬さんが建立されました。
    その昔、弘住の渡しと呼ばれた近くの川岸にあった「石づくりの灯台」が境
   内の一角に据えつけられているが、太田川の河川改修によりこの地に移された
   ものであります、その灯台の側には、草競馬の観覧席といわれる石垣がありま
   すが、これは神社のお祭りのときに神社前にあった競馬場で奉納されていた草
   競馬の観覧席の跡といわれています。
    また、神社の入り口の鳥居の上部に少し歪みが見らますが、これは昭和20
   年の広島原爆の爆風によるものといわれています。
 A 月野瀬神社
    月野瀬神社はまたの名を「月野瀬加茂大明神」と称し、建立の時期は不明で
   ありますが1,000年以上は経過しているといわれ、口田地区では一番古い
   お宮であります。この月野瀬神社のある地域を「大明地」と呼ぶのも、このお
   宮の名前からきているのです。
  B 神宮神社
    慶長4年(1599年)に建立され、平成10年には開祖400年の記念式
   がおこなわれています。
    お祀りされているご神体は、愛媛県の大三島にある「大山祗神社」のご神体
   と同じ大山祗命(おおやまずみのみこと)です。
    この神社には、ご神木として崇められている大きな「いちょう」の木があり
   200年を超える樹齢の古い木です。また、この神社には石づくりの灯籠が沢
 
   山ありますが、それぞれその姿、形には大きな変化があります。
  C 矢口えびす神社
    新宮神社の境内に建立されていますが、その昔は友竹(芸備線の矢口トンネ
   ルの手前付近)にあって七福神の1人恵比寿さまが祀られております。
    御神体の恵比寿さまは、昔中国から持ち帰られたものといわれ、現在は矢口
   村と呼ばれていた時代この地で商売をしていた人が、お家の神さまとして祀っ
   ていた恵比寿さまをこのお社に祀り、4体の恵比寿さまが鎮座されています。
  D 大歳神社
    口田小学校の西の小高い杉崎山にあって、杉崎神社とも呼ばれているが、建
   立された時期など、詳細な記録は残されていませんが、神社前の鳥居には天保
   13年と刻まれております。
    大歳神社は、地元の人には「ダサーサン」と呼ばれているが、高陽地区内に
   は落合、深川にも祀られており「大歳の神(おおとしのかみ)」はもともと農
   耕の神さんといわれ、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って祀られ、毎年9
   月15日にはお祭りがおこなわれております。
    この大歳神社の鳥居も、平成13年3月の芸予地震によって一部が壊れ、修
   復されました。
  E 平野神社
    中小田公園にあって、平野古墳(古墳時代の後期に見られる横穴式古墳)の
   入り口に建立されている。古い書き物によるとこの古墳の入り口に「平野山鎮
   守祠」ありと記録されており、この古墳の入り口は古くから開いていたのでは
   ないかといわれています。
    現在の建物は、昭和52年(1977年)に建て替えられたものですが、郡
   中国郡志には「平野山鎮守祠 神地畝 一畝十歩 無高 祭神 大己貴命 祭
   日 9月13日」とあり、ご神体は横穴式古墳といわれています。
  F 金毘羅神社
    弘住神社の境内にある、金毘羅神社はもともと海の守り神としてお参りされ
   ているが、海から遠く離れたこの地に金毘羅神社が建立されていることについ
   て詳細はわかりません。
    また、弘住神社の境内の石灯籠は「弘住の渡し」と呼ばれる所にあった灯台
   と呼ばれていたものですが、弘住神社の氏子さんが川の向いの中筋、東野、古
   市にまで及ぶことを考えると、昔は船による交流が盛んにおこなわれていて、
   この船による交流の安全を願って建立されたのではないかと考えられます。
 
  G 松笠山の稲荷神社
    松笠観音の境内の続きには「稲荷大明神」と呼ばれる稲荷神社がありますが
   郡中国郡志には、「御留め松笠山ノ内一畝二歩稲荷祠 梁桁方九尺、枌葺 右
   は観音鎮守ニ而御給主様御造営」とあり松笠観音の鎮守として建立されたもの
   と見られています。
    郡中国郡志に記述されている建立の時期は、元文3年(1738年)に浅野
   吉長を大檀主として勧請造立されたと記述されております。
  H 胡麻が谷稲荷社
    下小田の岩海(いわかい)のお地蔵堂からの松笠山への参拝道に沿って、こ
   のお稲荷さんがある、よく気をつけて見ないと見落とすぐらいの小さなお稲荷
   さんですが、郡中国郡志には「胡麻ケ谷稲荷祠 梁九尺桁一間 ハラ葺(ハラ
   葺とは藁葺きとのこと)祭日9月12日」と記述され、大変歴史のあるお稲荷
   さんです、この地が胡麻が谷と呼ばれることからこのような名前が付けられて
   いるのですが、現在の建物は昭和の終わり頃に建立されたものです。
  I 樽佐山稲荷社
    杉崎山の大歳神社の西側の木立の中に赤いお堂が見られる、このお堂が樽佐
   山稲荷社ですが、「元樽佐山鎮座 明治5年(1872年)壬申5月 弘住社
   相殿合併 祭神 宇迦御魂神」と樽佐山稲荷社と書かれている木札の裏に書か
   れている。昔、松笠山からお狐さんが通ってきていたという噂があります。
    稲荷祠については、このほか二ツ城山麓にもあったと記され、弘住神社に合
   祠されたといわれているが定かでなく、その所在についてもはっきりしない。
  J 三鬼大権現
    松笠山の稲荷神社の続く尾根の先端には、大きな自然の岩の上に乗っかるよ
   うに三鬼大権現さんのお社が建立されております。
    このお社は大正時代に建てられたものと考えられておりますが、自然の大き
   な岩がご神体ともいわれ、宮島の弥山の頂上付近にある「三鬼神大権現」のお
   社と向き合って建立されて、松笠山をお守りする天狗さまを従えた神さんが祀
   られているといわれています。
    この三鬼大権現さんの中にある大きな岩には、天狗の足跡がついているとい
   われていて、足跡らしき「くぼみ」もついております。
 ○ 口田のお寺、地蔵堂など
  @ 長谷山教蓮寺(ちょうこくざんきょうれんじ)
    もとは、真言宗で戸坂村の長谷山麓にあったが、延徳3年(1491年)に
 
   真宗に改宗して定入和尚の時代に矢口村(定入田)に移転した、といわれてい
   て、この地が「定入田」とも呼ばれております。
    広島県史には永正3年(1506年)に移転したと記されており、その後、
   現在地には寛永18年(1641年)に移転したといわれています。
    ご本尊は阿弥陀如来さまで、中央向かって右には親鸞聖人の絵像が、左側に
   は蓮如上人の絵像が掲げられております。
  A 多賀山教円寺
    寛永15年(1638年)に雲州赤名(うんしゅうあかな)**島根県**
   の西蔵寺から「願智」という住職さんがきて開祖したといわれていますが、広
   島県史には「昔は真言宗、平野山横超院西法寺と号して松笠山下にあり、天文
   2年(1533年)願智改宗、寛永中今の地に移る」と記されています。
  B 松笠観音寺
    松笠山(標高3746メートル)の中腹にあって、慶長年代(今から約40
   0年前)に戸坂城主−戸坂入道々海−が開祖したともいわれていますが、「龍
   水山松笠観音寺(りゅうすいざんまつかさかんのんじ)」と号し、広島県史に
   は寛文13年(1673年)に勝楽寺栄尊(しょうらくじえいそん)によって
   建立したと記されています。
    この松笠観音堂は、戸坂村と小田村の境界にあってその昔両村の若い者が相
   撲をとって境界を定めたと言われ、相撲に勝った小田村の方になったと言われ
   ています。
    この松笠観音のご本尊は、口田村史によると「宝暦14年(1764年)4
   月調の松笠山観音堂庫裏及び稲生社並建物道具調を見るに、御本尊正観音。脇
   立不動明王。同毘沙門天。弘法大師木像及絵像」とあり、旧広島県史には松笠
   山観音堂本尊釈迦如来とあります。
    祭礼は、旧暦の1月18日ですが、近年は毎年2月の日曜日を選んでおこな
   われております。
  C 草谷の山崎薬師
    この山崎薬師寺(やまさきやくしじ)は、宝永2年(1705年)に松笠観
   音第4世住職覚心(かくしん)によって建立されたといわれています。
    口田中学校の西にあって、この地が草谷(くさだに)と呼ばれることからこ
   のような名前がついている、この山崎薬師寺がある場所は大変見晴らしのよい
   高台にあって、桜の名所としても有名であり、大変古い歴史のある「夜山のお
   地蔵さん」もこの山崎薬師寺の境内に鎮座されている。
 
  D 岩海の地蔵堂
    昔からの松笠観音への参拝道の入り口として,このお地蔵さんが祀られてい
   る地蔵堂があります。
    この地蔵堂について、郡中国郡志の中に「和泉山黄幡祠(いずみやまおうば
   んし)」と記されている。
    天保13年(1842年)に「幸次」と言う人が願主となって建立されたと
   言われているが、その幸次と言う人、夢の中で仏様が現れ「きれいな清水の湧
   き出るところの下を掘れば、お地蔵さんがおられる、そのお地蔵さんを祀って
   くれれば、願いごとかなえてつかわす」とのお告げがあり、掘り出したお地蔵
   さんを祀り、湧き出ていた水で目を洗った人の眼病が治ったと言われている。
    その湧き出ていた清水の場所がこの地蔵堂が建立されているところといわれ
   ていますが、この地の岩海(いわかい)と言う地名からこの名前が付けられ、
   掘出院仏光寺とも呼ばれています。
    現在の建物は、平成元年に建立されたものですが、お祭りをしなかった年に
   は死人が多く出たとか、お地蔵さんが地域の火事から守ってくださったとか言
   われる話しもあります。
  E 夜山のお地蔵さんと山崎薬師の地蔵堂
    郡中国郡志にも記されている大変歴史のあるお地蔵さんで、矢口村と岩の上
   村との境界の夜山の峠にあって、現在は道路の改修によって草谷の山崎薬師の
   境内に移されています。
    この夜山の地蔵堂に鎮座していたお地蔵さん、この峠にたびたびおいはぎが
   出て、通行する人々を困らせていた、それを見ていたお地蔵さんがおいはぎを
   叱ったところ、そのおいはぎに叩かれて首がとれてしまった、との謂われがあ
   り、山崎薬師の地蔵堂にある幾つかのお地蔵さんのうち、首のとれるお地蔵さ
   がその「夜山のお地蔵さん」と言われています。
    この山崎薬師のお地蔵さん、現在6体のお地蔵さんが鎮座していますが、昔
   お嫁さんが嫁いでくるとき「末永く居すわるように」と花嫁の近所の若衆が担
   ぎ込んだとか言われ、方々の一目につくところや村ははずれに鎮座されていた
   ものが、道路など改修により、矢口地区ではこの地に集められたと言われてい
   て、ぞくに言う現役を退いた「お地蔵さんの老人ホーム」とか言われている。
  F 大久保谷のお地蔵さん
    太田川にかかる安佐大橋に隣接して「山陽自動車道」が東西方向に横切って
   走っている小高い丘が大久保山ですが、この山の中央部分に深く切れ込んだ谷
 
   があってはすが丘団地に通じる山道があります。
    この山道の入り口に小さなお地蔵さんが鎮座していますが、この山道はその
   昔、夜山峠を越えて高瀬の渡しから船に乗って中調子(佐東町川内)に行き来
   する人のための大切な道でした、急な坂道で「なめりみち」とか呼ばれていて
   大変滑りやすい道で、道往く人々が安全を願ってお祈りしていたのがも知れま
   せん。
  G 弘住神社裏のお地蔵さん
    弘住神社裏の矢口川沿いに3体のお地蔵さんが鎮座しています、このうちの
   1体はその近くのJR芸備線の踏み切りの側に鎮座されていたお地蔵さんとか
   言われていますが、大変見通しの悪い踏み切りのため、このお地蔵さんにお参
   りして心を静めて安全を確認してから踏み切りを渡ったとか言われています。
  H いぼ地蔵さん
    小田梶峠には、等身大のお地蔵さんがあります、頭にいぼのような突起があ
   ってこのお地蔵さんにお参りして花立て「水」を手につけたところ「いぼ」が
   とれたという伝えがあります。
    このため、お地蔵さんのことを「いぼ地蔵さん」と呼んでいるのですが、こ
   のお地蔵さんは宝永8年(1711年)に世並屋市郎左衛門という大阪の商人
   がこの地に居住した時に建立されたといわれています。
    このお地蔵さんは、正田さん宅の墓地にあるため、お参りするときは同家へ
   のご配慮をお願いしたいものであります。
  I 松笠観音の地蔵堂とお地蔵さん
    松笠観音の本堂の南側の地蔵堂には、中央に阿弥陀如来木像とその左右に5
   体づつのお地蔵さんが鎮座されている。
    この地蔵堂は、現在の鐘撞堂の近くにあったが、土地が崩れて傾いたために
   現在地に移されたものといわれております。
    松笠観音の境内の南側には「龍水の池」があった、今から約1000年前に
   弘法大師が諸国修業の際に自ら掘られたものといわれ「この水をいただけば四
   百四病に効く」と伝えられていて、この池の水は真冬でも凍ったことがないと
   もいわれていましたが、今は涸れてやや広い空地になり、護摩道場として使わ
   れていて、新しく地蔵堂の側に井戸が掘られております。
    近年は、ラドンを含むこの井戸の水を求めて大勢の人々がお参りに訪れてい
   ますが、この井戸の真後ろにあたる山頂に向かう尾根には、大きな割れ目のあ
   る岩が横たわっていて、その割れ目がに沿って地下の水脈が通じているため、
 
   この井戸の水はこれまで一度も涸れたことがないといわれています。
    この地蔵堂の横には、観音菩薩像も立てられていて、毎年11月には信者の
   方により法要が営まれております。
 ○ 戸坂入道々海と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
   慶長年代、松笠観音を開祖したといわれる戸坂城主戸坂入道々海で
  すが、武田家の末っ子竹若丸を安国寺に育て、後年の安国寺(不動院)恵瓊と
  大成させた功績は大きいといわれております。
   恵瓊は、銀山城主武田光和の末っ子で、光和の死後その弟伴城主下野守の子
  信重と叔父武田信実とが和の跡目をねらって争いを起こした。
   このとき、やっと9才になった竹若丸は、戸坂入道々海の手により養育され
  父母の菩提を弔うため、防州(山口県)徳山の大浄寺で得座し、京都の東福寺
  に入り頓蔵王と呼ばれ、瑶甫と名乗り一任斉と号し正慶とも言った。恵瓊はそ
  の正式名であります。
   恵瓊を育てた戸坂入道々海は、その後武田家の陥落を前に理由不明の切腹を
  仰せつかり、戸坂くるめぎに葬られていると言うが、この戸坂入道々海によっ
  て育てられた恵瓊であるが、慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦で東軍の
  徳川家と戦い破れた西軍の首謀者とされる石田三成、小西行長とともに安国寺
  恵瓊は徳川家康により処刑されることとなった、当時は戦いの敗者は自決する
  を潔(いさぎよ)しとする習わしであったが、武将ではない僧侶の安国寺恵瓊
  がなぜ処刑の対象となったか明らかでなく、戸坂入道々海の自害もこのことに
  関係するのではないかとも考えられるが、武田家の跡継ぎをめぐる争いが起因
  しているともいわれ、この関ケ原の合戦や松笠山での大内の勢力と戦って破れ
  た武田の勢力の陥落(戸坂の合戦と呼ばれ、戦力の拡大を示すために千足のわ
  らじを川に流したといわれる。・・このため現在地が「千足」という地名にな
  ったともいわれている・・)に起因しているのか明らかでない。
○ 戦国時代の安芸武田氏の衰退と滅亡
   安国寺恵瓊について、ある郷土史研究誌の「広島・瀬戸内・山陰の歴史&ウ
  オーク」(郷土史紀行)の中の「安芸武田氏の衰退と滅亡」と題する記事には
  次のように記述している。
   「元繁の後は嫡子光和が継ぐ。光和も父同様豪勇型武将だったと伝えられが
  熊谷氏(三入高松城主)はじめ、家臣団の離反等で、頽勢挽回なきまま33歳
  で病没。後は、若狭国守護武田元光の孫信実(元繁の弟伴五郎繁清の子との説
  あり)が継ぐが、光和の弟(下野守)の子信重と跡目相続争いをしているうち
 
  天文10年(1541年)、大内氏の配下にあった毛利元就等によって銀山城
  を攻められ、信重は自殺、信実は尼子を頼って出雲へ逃れ、ここに安芸武田氏
  は滅亡する。
   安芸の名族武田氏滅亡のとき、信重に竹若丸という4歳の男子があり、家臣
  に伴われて足利尊氏・直義兄弟が、後醍醐天皇以下南朝の戦没者冥福のため、
  国ごとに建立した安国寺(広島では「不動院」)に逃れ、同寺の僧として成長
  し、屈折の後毛利家の外交僧となる。
   天正10年(1582年)6月、羽柴秀吉高松城水攻めのとき、本能寺の変
  を知って恵瓊を招き、領国割譲の緩和と清水宗治の切腹をもちかけてこれが成
  功する。安国寺恵瓊は、その後長宗我部元親の討伐に毛利一族と共に大功あり
  長宗我部の旧領の一部を受領し大名となる。
   慶長5年(1600年)9月の関ケ原の合戦では、西軍に荷担して美濃南宮
  山に陣するが、関ケ原の合戦で西軍の敗北を聞き、戦わずして京都に敗走し捕
  らえられ、同年10月、石田三成、小西行長と共に京都五条河原で処刑さる。
  かくして、安芸武田氏の命脈は完全に潰えたのである。」(この項郷土史紀行
  より転写)と記述されているのですが、松笠山の中腹には山城の跡があり、戦
  国の時代には周防の国の大内の陣営と安芸の国の武田の陣営との戦いがおこな
  われたとの記録も残っています。
   このほか、近くには城主が分かりませんが「幾志山城」の跡や、「伊豫の人
  来たりてこの地で戦へり」と言われる「伊豫陣原の合戦跡」(地元では「伊豫
  陣」と呼んでいる。)もあります。
   また、口田公民館前の道を隔てた真向かいの西側には「池田城」という山城
  が存在したこともはっきりしております。
   このように、山城の跡や合戦跡など戦国の時代の遺跡と見られるところが沢
  山ありますが、詳細な記録が残されていませんので、当時の口田の歴史を知る
  ことができません、安国寺恵瓊を知ることは、卑弥呼の鏡による古代国家の始
  まりの時代の口田の歴史を知るとともに、弥生時代から古墳時代の「ひろしま
  の歴史」を知ることもでき、さらには沢山ある「山城の跡」の調査が進めば戦
  国時代の口田を研究するための手掛かりを得ることができるのではないかと考
  えられます。
○ 口田地区の廃寺など
    「郡中国郡志」に記載されている文政の頃(1818〜1829)における
   高陽地域の仏堂及び仏教的な信仰の対象となっている箇所は、30か所あると
 
   いわれていますが、観音堂(石観音を含む)が最も多く11か所、地蔵堂(地
   蔵を含む)がこれに続いて8か所、薬師堂3か所、その他8か所となっている。
   小田村には松笠山(観音堂)、岩海(地蔵堂)の名があり、廃寺となったと
  ころには矢口村では西願寺、西福寺(広島に移ると伝える)などが、小田村に
  は正楽寺(広島真言宗勝楽寺)**松笠観音の前身といわれている**、西法
  寺(広島に移り西応寺と改めるとあるが不詳)があります。
   西願寺は、その名のとおり広島県の史跡指定をうけている「西願寺遺跡群と
  西願寺北遺跡」として廃寺跡と考えられる所在地を確認することができます。
   また、西福寺についても上矢口にその地名が存在することから、この廃寺跡
  と考えられる場所も特定することができます。
   矢口村の瀬尻山には「トウノダン」と呼ばれるところがあって、口田村史に
  は昔には塔が立っていたとの記録があります、また、中矢口遺跡が発掘された
  付近の山麓には清水の湧き出るところがあって「オンバンサン」と呼ばれてい
  たが、黄幡祠と呼ばれる「祠」があって「オオバンシ」がなまって「オンバン
  サン」となったのではないかとも考えられます。