ふるさと口田の古代遺跡と古墳
**古代国家の胎動**
◇ はじめに
古代遺跡の発見と発掘調査により、次々と新しい事実が解明されていますが、そ の度にマスコミなどにより、「邪馬台国(やまたいこく)九州説に軍配とか「古代 出雲王国の栄光を証明」とかいわれ、古代国家は「邪馬台国(やまたいこく)大和 説」とする説との間で論争が行われています。
これらは、「卑弥呼(ひみこ)の宮室」「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅ うきょう)の謎」などに関して「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の謎説きの面白 さから伝えられている。
◇ 日本列島における古代国家の胎動
日本列島において、「国家」はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか、 数多くの人々が研究を重ねていますが、当時の国家と見られる姿には、現在のよう な日本国という概念とはまったく異なり、また、「古代国家」という概念が人々に よって色々な考え方もあるため、日本の古代国家の成立の時期についても諸説があ ります。
その一つに、3世紀頃の「邪馬台国」(やまたいこく)を初代の国家であるとす る考え方のなかには、2世紀末の「倭国の乱」(わこくのらん)の収拾の過程にお いて「卑弥呼」(ひみこ)という女王を中心に政治的な纏まりができたことがその 考え方の根幹となっているようであります。
邪馬台国は、その所在がどこであったかはっきり分かっていません、大和説(新 井白石)や九州説(本居宜長)など、江戸時代の有名な学者達がすでに「倭人伝」 (魏志倭人伝・ぎしわじんでん)に記載されている当時の社会の特色や政治の仕組 みから「邪馬台国」が古代国家と提唱する人が多くあります。
◇ 倭国の乱(わこくのらん)について
「その国、もと男子をもって王となし、住(とど)まること7、80年。倭国が 乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼と いう名である」**、これは、卑弥呼の登場について「魏志倭人伝(ぎしわじんで ん)」が語る有名な文章です。**
また、「後漢書」という書物(魏志倭人伝より後に編纂された書物)で「桓・霊 の間(後漢の桓帝と霊帝の治世の間の意味で、147年〜188年の間)、倭国大 いに乱れ」と書いている、このことから倭国の乱とは180頃に勃発したものと考
えられていて2世紀末頃のこととなり、3世紀の半ばに「魏の王朝」によって「倭 国王」と認定された「卑弥呼」が、この倭国の乱の収拾のために共立された王であ る重要な史料とされている。
魏志倭人伝に記述されているところから、2世紀末の「倭国の乱」以前にも戦い のあったことは考古学の研究のなかから明らかにされていて、各地の遺跡や古墳か ら出土する石剣、銅剣や鉄剣など縄文時代とはくらべてはるかに武器として発達し ているとい言われています。
また、傷を受けて人骨や、剣の切っ先が折れて突き刺さった人骨なども残ってい て各地の遺跡や古墳から出土しております。
◇ 鉄の供給ルートをめぐる覇権争い(はけんあらそい)について
2世紀末の倭国の乱については、九州の有力者が朝鮮半島の庇護(ひご)のもと にあって、鉄の獲得について優位であったが、この朝鮮半島の有力者(後漢王朝) が弱体化したことが契機となって大和政権が九州の有力者(筑紫政権)を制圧して 鉄の供給ルートを掌握したとの説が有力であります。
その九州の有力者との覇権争いについては、北部九州でリーダーシップをとって いたのは奴国(なこく)であったが、2世紀に入り同じ九州北部に拠点をもつ伊都 国(いとこく)の力が大きくなり、邪馬台国がこの伊都国と友好関係をもち、鉄の 供給ルートをめぐり権力を拡大していったと言われております。
◇ 前方後円墳のはじまりについて
倭国の乱の激動のあとにやってくる大きな変化、それが「前方後円墳」の登場で あります。
この鍵穴の形をしたこの墳丘の起源については、多くの学者で論争されておりま すが、この鍵穴の形が「宮車(きゅうしゃ・**中国古代の皇帝が使用していた車 **)」を模したものとの説があります、しかしこの説には古墳時代には車がない ことから疑問視されていますが、前方部は車をひく柄の部分と考えることについて は現在でも継承されております。
このほか、前方後方墳や突起のあるものなど墳丘の形は色々ありますが、墳墓は 祖先の祭祀のためのものであり、墳丘の形や埋葬施設の型式には集団の伝統を保守 的に維持するもので、集団のシンボルともなって連携や友好関係の証としていたも のと考えられております。
**ひろしまの弥生・古墳時代**
◇ 弥生時代から古墳時代への移り変わり
今からおよそ2,300年前、大陸から新しい技術と金属器(鉄、青銅など)の 伝来により、集落の形成にはじまり米づくりに代表される農耕文化の発達が見られ るところであります、口田地区を含めて高陽地域では大規模団地の造成により当時 の住居跡などの遺跡、古墳などが次々と発見されております。
この地域の特徴として、平地が少なく住居などの居住空間は必然的に山地を切り 開いて構築され、少ない平地に耕地が形成されたことが窺えます。
口田地区では、平成8年(1996年)に国の史跡指定をうけた「中小田古墳群 (なかおだこふんぐん:14基)」や広島県の史跡指定をうけている西願寺山墳墓 群、広島市域では最大の規模と言われている「梨ケ谷遺跡」、古墳時代の始まりの 頃の遺跡とも言われている「弘住遺跡」など、弥生時代後期(1800年前)から 古墳時代前期、後期にいたる数多くの遺跡や古墳が発掘されているが、発掘された 遺物や古墳の埋葬の形態の変化などから、「村」全体で分かち合っていた「富や権 力」などが、特定の人に集中していた時代へと移り変わって行った「村」の様子が 窺え、その後「村」から次第に「国」へと時代の変遷の中で移行して行ったことを 知ることができます。
◇ 中小田古墳群と卑弥呼の鏡
1 中小田古墳群が国の史跡に指定されたことについて
私たちのふるさと口田には、この中小田古墳をはじめとして、広島県の史跡
に指定されている「西願寺山墳墓群遺跡」や広島市域では一番大きな遺跡では
ないかと言われている「梨が谷遺跡」、前方後円墳では広島市域最大と言われ
ている「弘住第1号墳」など弥生時代の後半から古墳時代にかけての遺跡や古
墳があります。
「弘住第1号墳」は、その構築の状況と埋葬品から古墳時代の初期のものと
して、広島市では最も古い遺跡であると見られており、この弘住第1号墳を境
に、西願寺遺跡、梨が谷遺跡などは弥生時代の後期に形成され、上小田古墳や
中小田古墳群などは4世紀から6世紀にかけて形成されたものと言われており
ます。
しかし、中小田古墳群の第1号墳からは「卑弥呼の鏡」とも言われる「三角
縁神獣鏡」が出土したことから、古代国家の形成の過程を知るうえで、また、
当時の広島の地がどのような姿であったか、大変貴重な史料であるとの理由か
ら国の史跡に指定されたのであります。
2 卑弥呼の鏡とは
中小田古墳群の第1号墳から発掘された三角縁神獣鏡は、邪馬台国(やまた
いこく)の女王と言われた「卑弥呼(ひみこ)」が、中国の皇帝から手に入れ
た鏡と言われていて、同じ鋳型で作られたと見られる鏡が京都府、大阪府、奈
良県、兵庫県と福岡県の代表的な古墳から見つかっており、近畿地方にあった
統一政権が「国づくり」に深くかかわった豪族達に分け与えたものと言われて
いるものであります。
3 邪馬台国とその女王「卑弥呼」について
2世紀の中頃から終わり頃(147年〜188年)にかけて、倭の国の豪族
たちが戦いをおこしたと古い書物(「魏志倭人伝」)に書かれております。
この魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記事には「その国、もと男子をもって
王となし、住まる(とどまる)こと7、80年。倭国が乱れ、たがいに攻伐す
ること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。」
と記述されていますが、この頃は「倭国の乱」と呼ばれていて、3世紀の半ば
に魏の王朝によって「倭国王」と認定された卑弥呼がこの動乱を収めたと言わ
れております。
4 墳丘墓と前方後円墳について
倭国の乱の激動のあとにやってくる大きな変化、それは前方後円墳が登場す
ることであります。
この起源については、いろいろな説があってはっきりしませんが、すでに中
国や朝鮮半島には存在していたとも言われておりますので、大陸からその流れ
を受け継いでいるものと考えられております。
墳丘墓には、その墳丘部分が円形のもの(円墳)や四角い形のもの(方墳)
のほかに突起のあるものなど、さまざまありますが、墳墓は祖先祭祀のための
ものであり、墳丘の形や埋葬施設の形式には集団の伝統が保守的に維持され、
その形式や副葬品などにより同盟集団とか連帯などの仲間意識の確認などがあ
ります。
また、その墳丘部分の形により前方後円墳、前方後方墳、円墳や方墳などと
呼ばれているのでありますが、前方部分や突起の部分は、その墳丘墓に祀られ
ている祖先の祭祀を営む場所(祭壇)とも見られております。
主要な前方後円墳からは、卑弥呼の鏡とも言われている「三角縁神獣鏡」が
出土していることから、前方後円墳が邪馬台国の女王「卑弥呼」との関係が取
り沙汰されているところであります。
5 卑弥呼のお墓は「前方後円墳」?
「魏志倭人伝」には「卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩」
と書いてあります。
しかし、直径という表現からは円墳と考えられていて、この「魏志倭人伝」
では前方後円墳とは書いてありませんが、埋葬されている中心部分の円墳の大
きさを書かれているものと考えられていて、前方部分は祭壇であったとも言わ
れております。
このことから、卑弥呼のお墓は奈良県の「箸墓古墳」(はしはかこふん)と
見られていますが、邪馬台国がどこにあった?の謎とともに、卑弥呼のお墓が
どこにあるか?も古代の謎となっております。
**口田地区の主要な遺跡・古墳**
ア 西願寺山墳墓群遺跡
西願寺山墳墓群は、弥生時代の後期(約1900年前〜1700年前)の墓地群 と考えられ、5群からなっている。このうち特殊な埋葬形態と河原石を大量に積み 上げた竪穴式石室は独特のもので、県内では他に例をみない貴重な遺跡として、昭 和49年4月にその内の2群が広島県の史跡として指定を受け保存されている。
また、この西願寺山墳墓群と梨ケ谷遺跡との間には「西願寺北遺跡」もあったが 現在では団地造成により見ることができなくなっている。
イ 梨ケ谷遺跡
西願寺山墳墓群遺跡近くの北側に位置する小高い丘の上(口田町)に「梨ケ谷遺 跡」がある。
この梨ケ谷遺跡は、弥生時代後期のはじめ頃(約2000年前)から、弥生時代 の後期(約1700年前)にかけて形成されたものと見られており、竪穴式住居跡 18軒以上、掘立柱の建物跡の他に貯蔵穴などが見つかっている。
また、弥生土器、石鏃、土製勾玉、鏡形土製品などの遺物が見つかっており、竪 穴式石室からは弥生時代の人骨も見つかっている。
この「梨ケ谷遺跡」はこれまで広島市内で見つかっている集落跡では比較的規模 の大きなものであり、建て替えられたと見られる住居跡が多く見られることに特徴 があり、また墳墓群のうち竪穴式石室には多数の河原石が使用されている。
また、限られた住居跡からは祭りに関係する遺物(土製の勾玉、鏡形土製品)な どが見つかっている。
古墳時代直前の竪穴式石室は全国でも少なく、河原石を使うタイプはほとんどが 太田川下流域に限られ、短期間しか造られていないため、その源流は謎に包まれて いると言われているが、鉄器の副葬品などから朝鮮半島南部に起源を探ることがで きるのではないかという意見もある。
ウ 大久保遺跡、大明地遺跡など
JR芸備線の安芸矢口駅前の道を安佐大橋東詰めに数分も歩いたあたりに「山陽 自動車道」の高架橋と交差する場所がある。
こんもりとした繁みに囲まれた山裾には「月の瀬神社」が見られるが、この月野 瀬神社を取り囲むように「大久保遺跡」「大明地遺跡」「月野瀬遺跡」などが点在 し、高陽中央通りや山陽自動車道の工事に先駆け発掘調査が行われ、その所在が確 認されたのである。
大久保遺跡は、山陽自動車道の建設工事により南東側の一部が削り取られている が、昭和3年(1928年)当時の地形図によると南西方向に延びる丘陵の先端付 近で、東側に入り込んだ谷に向かって南東方向に枝尾根が派生し、本遺跡は北東側 に残る尾根上と南西側に残る丘陵先端部分の斜面に分布していたことが確認されて いる。
北東側に残る尾根からは、尾根の東側の谷を望むかたちで営まれた竪穴式住居跡 5軒、貯蔵穴2基、テラス状遺構2カ所が見つかっており、丘陵先端部の太田川を 望む斜面からは、土壙墓35基、土器棺墓4基、テラス状遺構1カ所が見つかって おり、遺構内とその周辺からは弥生土器、鉄器及び石器が出土している。
この大久保遺跡は、西願寺墳墓群A地点に近い形態が窺われ、弥生から古墳へ変 化する時期のものと推察されている。
また、この近くからは「大明地遺跡群」が見つかっており、月野瀬神社の北側の 尾根上に沿って月野瀬神社を囲むように西側から大明地第2号古墳、第1号古墳が あり隣接して、第3号古墳と谷を隔てたその東側には第3号古墳関連遺物と見られ る遺跡がある。
この遺跡群の特徴としては、丘陵地の尾根部分とどまらずその尾根を形成する傾
斜地にまで広く分布していることで、段状の遺構、竪穴式住居跡、堀立柱建物跡を 中心に数多くの遺構が検出され、遺物もコンテナ100箱分が出土している。
発掘された遺物は、傾斜をもつ尾根や傾斜地に立地していて遺構内の保存状態は
よくないために集落の内容、構造などについて明らかにすることが困難な状態であ
ったと言われている。
この大明地第1号墳は「方墳」で、特異な形態の石釧(せきせん)*うでわ*古 式土師器などが出土し、第2号墳は「円墳」で、確認された2基の埋葬施設の一方 から鉄器が多量に発掘され、この墳墓に関連すると考えられる初期の「須恵器」も 発掘されている。
第3号墳は墳丘、埋葬施設などは不明であるが、初期の「須恵器」や玉類が出土 している。また、近接する丘陵上に発見された「第3号墳関連施設」からは第3号 墳から出土した「初期須恵器」と同一の破片が発掘されていて、この時代の墳丘の 形成と古式土師器や初期須恵器などの土器年代を考える上で、貴重な遺跡であると 言われているが、火葬墓からは人骨、鉄釘や貞観永宝などが出土していて人骨の分 析と年代測定の結果では貴重なテータが得られるのてはないかと考えられている。 月野瀬神社遺跡は、月野瀬神社の裏山一帯のなだらかに広がる傾斜地で、崩れ落 ちた遺物が散在していて詳細な遺跡の形態などは分からないと言われている。
また、月野瀬神社古墳は神社の南側の尾根の突端の南側斜面に存在すると言われ ているが詳細は分かっていないが、この付近の遺跡群は、周辺の遺跡や墳墓の作り 方の類似性や発掘された出土品などから、いずれも弥生時代の後期のものと見られ ている。
エ 中矢口古墳群
梅園団地の造成工事により発掘調査がおこなわれたが、現存するものは広島市立 口田小学校の校庭に復元し保存されている箱式石棺1基のみである。
この地からは、竪穴式住居跡4軒と口田小学校の校庭に復元保存してある箱式石
棺1基が見つかっているが、周辺の宅地造成などによる地形の変化が著しく、かっ ての遺跡がどの範囲まで広がっていたか不明であり、副葬品などを欠いているため 明確な築造の時期を判断しえないが、構造及び他遺跡の類例から古墳時代の前半期 に入るものと推察されている。
この地の近く(現在の梅園団地入り口付近の丘陵先端部)には、かっては「オン バンさん」と呼ばれていた岩間から清水の湧き出る箇所があった。
こんこんと湧き出る清水は、夏は冷たく冬は温かい水であったが団地の造成によ りその清水の湧出も止まってしまったが、昔にはこの場所には「黄幡祠」(オウバ ンシ)なる小祠(お社)があって「オンバン」と呼ばれていたのかも知れない。
オ 高陽台遺跡群
高陽台遺跡群は、二ケ城山(標高483.2メートル)から北西に派生する丘陵 の尾根上にあって大字矢口字城前と字道川(どうがわ)にまたがって分布する三箇 所の遺跡群(A,B,C)で、A群はA1地点とA2地点に分かれている。
A地点の遺跡は竪穴式住居跡を中心とした遺跡群であり、B地点は古墳と住居跡 からなる遺跡群であるが、C群は、草谷の山崎薬師のある尾根の続きの頂上付近で
あって、矢口が丘団地の開発工事中に偶然見つかった貝塚である。
高陽台遺跡群(B)地点は、草谷の山崎薬師の北側の谷をはさんだ向かい側の高 台にあって、鍋山の共同墓地に続くやや西側に突き出た位置にあって、この地から は、竪穴式住居跡2基、高床式住居跡1基、墳丘墓1基、古墳4基が見つかってい る、この住居跡からは多数の土器片と壺型土器が見つかり、高床式住居跡は6基の ピットが確認されているが、墳丘墓には、土壙1基と箱式石棺2基が認められ、弥 生式の土器などが発掘されている。
このうちの第4号墳と呼ばれる古墳は、道川山(どうがわやま)の「長七が丘古 墳」として現地に復元保存されている。しかし説明用に建てられている石標に刻ま
れている第6号墳は第4号墳の誤りです。この、箱式石棺は広島市内でも規模の大 きなのものと言われ、大きな切り石が使用されているとろに特徴が見られる。
カ 上矢口古墳群
矢口が丘上下車、南方の加唐池(ががらいけ)に沿い谷川を渡り尾根を登る、徒 歩50分と調査にあたった人は述べているが、上小田バス停にて下車した場合は、 ふじらんど団地内を通り抜け、東区温品「菰口いこいの森自然公園」に通じる中国 自然歩道を約1キロメートルも歩き、一が谷のため池の手前100メートルのとこ ろから左折し、二ケ城山への登山道を登る小高い丘の上に見られる、通称仙人原遺 跡と呼ばれて丸い河原石が多数積み上げらていると言われているが、草木が茂り簡 単には見分けられなくなっている。
通称仙人原遺跡の積み石が、何時のころからだれによって、また、どのような理 由で積み上げられたものかは全く不明であるが、この上矢口古墳群についての学術 的な調査はこれまでおこなわれていないため詳細は不明であるが、太田川流域から 遠く離れた場所にあるため、口田地区ではめずらしいと言われており詳細な学術的 な調査が待たれるところである。
キ 弘住遺跡
弘住遺跡は、広島市立口田小学校の裏山に続く尾根筋にあって、その北側の山裾 には弘住神社がありJR芸備線が走り、太田川が平行して流れている。
この、弘住遺跡には、太田川流域では最大規模の古墳であると推定される弘住第 1号墳を含む、古墳5基(第1号墳〜第5号墳)と配石土壙、弥生配石遺構各1基 が発見されている。
この弘住遺跡からは縄文土器、弥生土器や石鍬などの遺物も見つかっているほか 第2号古墳からは1,731個という大量のガラス製の色調豊かな小玉が見つかっ ている。
このガラス製小玉は、弥生時代中期以降に用いられている巻きガラス製法と吹き ガラス製法でつくられたものと考えられ、この中には当時の我が国にはなかったと 言われているコバルト着色をしたガラス玉もあり、ガラス玉(製品)を輸入したも のか、材料を輸入して我が国で造られたものか謎につつまれている。
この大量のガラス玉は、装身具として使用されていたものが副葬品として埋葬さ れたものと考えられているが、1,700個という量は広島市域では最大の量であ ることが判明している。
この弘住古墳第1号墳は、つくりは古墳時代のつくり方であるが、埋葬品は弥生 時代のものが大量に見つかり、弥生時代から古墳時代へと変化する過程で形成され
たものとして、広島市域でも比較的規模の大きい前方後円墳と見られているが、こ の地は私有地であり、石室などの構築物が崩れる恐れもあるとして土地の所有者か ら無断で立ち入ることが固く禁じられている。
ク 上小田古墳
大歳神社(おおとしじんじゃ・通称ダサーサンと呼ばれている。)のある口田小 学校の南にある杉崎山には、上小田古墳が存在したことが確認されている。
この上小田古墳は、組合せ式石棺を内部主体とする円墳であり、5世紀中葉もの と推察され棺内には枕石と考えられる自然石が置かれ、剣や刀などの鉄製品が検出 されている。
現在は、住宅の建設が進みその古墳跡を見ることができなくなっている。
ケ 松笠山の「湯釜跡」と「山伏塚」
岩海の地蔵堂から松笠山の中腹にある松笠観音へ登る参拝道沿いに、「山伏塚」 と呼ばれる場所がある、昭和8年(1933年)に刊行された「口田村史」には、 この山伏塚について「石にて3尺に9尺の穴にて、往古山伏の這い入りたるものな り。」と記され、2基存在することが確認されている。
その一つは参拝道沿いのやや小高いところにあり、石積みの囲いがあるが入り口 は狭く、記述されているように人が出入りすることはできない。
この山伏塚と言われる古墳は、古墳時代の前期に属する竪穴式の古墳と考えられ ているが、その一部が崩れて「口田村史」に記述されている山伏の這い入りたる出 入口と呼ばれているが、古墳の内部はかなりの大きな石室となっている。
また、地元の長老の話しでは「2丁塚」と呼ばれるところに古墳らしきものがあ ると伝えられているが、この2基存在すると言われる「山伏塚」が3基あるとも言 われているため、この一連の「山伏塚」のことを指すのではないかと推察される。 また、4丁塚なるものが存在するとも言われているが、はっきりした場所の確認 はされていない、しかし言われているこの地付近は中小田古墳群の一番高い所と合 致することから、その中小田古墳群のうち第11号墳〜第12号墳のことを言って いたのではないかと推察される。
さらに歩を進めて、7丁塚と8丁塚の中間少し小高く盛り上がった場所には、か って硫黄質の温泉が湧き出ていたと言われる「湯釜跡」があり、30〜50センチ メートル大の礫を積んだ積石式の古墳である。
この場所は、前方後方墳と見られているが石室の内部は盗掘されており、埋葬品 などは不明である。
「郡中国郡志」によると「湯釜跡、湯坪弐ケ所、松笠山当時安キ郡戸坂村論山ノ
内ニ御座候、往古湯湧出申候頃より当村ノ湯相止申候由、古人ヨリ申伝候」と記さ れ、この地より湯が湧き出ていたことを知ることができる。
また、口田村史には「一人の山姿ありて是に一つの不浄物を投じたるにより湧出 止まり、是より伊豫の国道後に湧き出たりと伝えられり。」とさらに「道後温泉に 小田湯あり」と記されている。なお、松笠山の中腹にある「松笠観音寺」の境内に は弘法大師ゆかりの清水の湧き出るところも存在する。
コ 中小田古墳群
「卑弥呼の鏡」と呼ばれる銅鏡や車輪石などが出土し、古代国家形成の過程を知 るうえで貴重な史料とされる「中小田古墳群」である。
この古墳群は、松笠山の北西に延びる標高60〜130メートルの丘陵尾根上に 点々と分布する4世紀後半から5世紀末ないしは6世紀の初頭にかけて形成された 古墳群と見られている。
当初12基の所在が確認されていたが、平成8〜9年におこなわれた調査の結果 5号墳と6号墳の間に第13号墳の所在が確認され、貝塚のあることも確認されて おり、そのことから弥生時代の住居跡が存在するのではないかと言われている。
平成11〜12年には3号墳、4号墳の調査がおこなわれて鉄剣などが見つかっ ているが、このあたりは中世時代の山城の跡とも言われていて、築城のために古墳 や石室がくずされていてその形状が明確でない。
また、中小田古墳の1号墳と並んで貴重な第2号墳は、最近出没する猪に荒らさ れて石室は当時の面影がなくなっている。
平成8年(1996年)11月には、この中小田古墳群が国の史跡に指定されて いるが、この中小田古墳を代表する第1号古墳は前方後円墳で、その埋葬施設は竪 穴式石室であったことが判明しており、三角縁四神四獣鏡、獣帯鏡などの銅鏡や車 輪石、玉類、鉄斧などが出土している。
この三角縁四神四獣鏡は「卑弥呼の鏡」(ひみこのかがみ)とも言われ、学術的 にも大変貴重な出土品であるが、第1号墳のそばには「将軍松」と呼ばれていた松 の木が立っていて、麓の中小田バス停あたりからも望むことができていて恰好の目 印となっていたのであるが、松食い虫の被害をうけて現在では枯れてしまった。
この中小田古墳群のある地域は、古墳時代には瀬戸内海がこの近くまで入り込ん でいて内海交通の一つの拠点であったことが考えられており、この地域での優位な 地位を保持しながら形成された背景がある場所として、国の史跡指定をうけてから 毎年継続した調査が実施され、現在(平成14年3月)では14基の古墳と貝塚が 存在しその周辺には住居跡が存在することも判明している。
サ 平野古墳、平野神社
平野古墳は、一個の独立したドーム状の整美な形をしている口田地区では唯一の 横穴式の古墳で、近くの中小田古墳群などに見られる竪穴式の古墳とは異なる形を しており、古墳時代の後期のものと推定されている。
口田村史には「鎮守の大椎」(1丈5尺、5間)がこの古墳の上にあって、中小 田公園内に向けて大きな枝を広げている。
この「鎮守の大椎」と呼ばれる樫の木(しらかし)は、根元から幾重にも幹が分 かれている、また、古墳の北側には「あらかし」の大木が、古墳の上には多数の椿 の大木があり、樹齢200余年と言われる大きな藤の木があり、その蔦が大蛇のご とく「鎮守の大椎」や椿の大木にまつわり、藤の花の咲く頃はみごとであったと記 されているが「鎮守の大椎」や椿の大木が枯れることがないようにと、現在はこの 藤の木は途中で切断されている。
この平野古墳にある平野神社については、口田村大字小田(平野山)に在り、祭 神「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」、祭日は9月13日と言われておりますが この大穴牟遅神は「大巳貴神(おおなむちのかみ)」とも書き、矢口新宮神社の祭 神と同じ神です。