〔松笠山へのご案内〕
 
***松笠山の自然と歴史を訪ねる、健康ウォークを楽しむ方へのご案内***
 
   松笠山(標高3746m)は、東区菰口「憩いの森」をはさんで東に二ケ
  城山(標高4832m)を望み、ふるさと口田に残された数少ない自然を楽
  しみ、また古い史跡などを訪ねて歩くことのできるハイキングコースには最
  適な所です。家族そろっての行楽の秋のひととき、楽しい一日であるように
  願っています。
 
@ 松笠観音とその周辺
 松笠観音は、慶長年代(1596〜1615年)に戸坂城主−戸坂入道々海−なるものが開祖したと言われ、寺号を「龍水山松笠観音寺」と称している。
 中国郡誌によると、観音堂一宇、方九尺、藁葺、本尊正観音行基菩薩の作(「聖観世音菩薩行基の作」というべきかも知れない。)、先年御給主様(浅野甲斐守)より御建立とあり、また、棟干支札写しを解文したものとして「寛文十三癸丑年八月十五日松笠山正観音尊堂一宇を再建し奉る。」との記録があり、口田村史には「宝暦14年(1764年)4月調の松笠観音堂庫裏及び建物道具調を見るに、御本尊正観音。脇立不動明王。同毘沙門天。弘法大師木像及び絵僧」とあり、旧広島県史には松笠山観音同本尊釈迦如来とありますが、釈迦如来像は観音本堂とは別に観音堂の南側に建立されている地蔵堂に祀られている。
 また、「元禄十六年癸未三月十八日中興開山宗譽圓水、松笠山歓喜寺正観音寺を建立し奉る。」とあり、寛文13年(1673年)、元禄16年(1703年)に改築されたことが読み取れますが、現今の観音本堂は明治9年頃建立されたものと言われておりますが、松笠観音は広島城から見て鬼門(丑寅の方角)に建てられているとの説もありますので、最初に建立された時期は毛利輝元により広島城の築城が始められた年(天正17年<1589>)から見て慶長年代の始めの頃とも考えられる。
 松笠観音堂は、戸坂と小田の境界線上にありその境界を定めたことについて、その昔両村の若い衆が相撲をとって境をきめたと言われており、勝利をおさめた小田村となったとの言い伝えがあるが、大正年代の住職岩坪玉吉氏は、当時70才の高齢であったが、19才のころ、福山に出て当時の関取朝日山に知られるところなり力士となり「島ケ谷」と名乗って名声をとどろかせたとの伝えがある。
 境内の続きに、元文3年(1738年)4月吉祥日に造立したと言われる「稲生神社」があり、その尾根の先端には「三鬼大権現」のお社もあります。
 
 稲荷神社は、当時、芸備日日新聞社の通信員であった川内朧月氏が記した口田村史によると「正一位重氏大明神と稱へ、霊験あらたかなれば崇拝者の参詣者常に絶ゆることなし。其の参詣者は、大正年代のはじめ新築された東なる庫裡に宿泊するを常とし、當山番人岩坪玉吉は此所に仙人の如き生活をなし参詣者を優遇しつつあり。」と記されております。
 郡中国郡志には「御留め松笠山ノ内一畝二歩稲荷祠 梁桁方九尺、枌葺 右は観音鎮守ニ而御給主様御造営」とあり、「松笠観音の鎮守として元文3年(1738年)に浅野吉長を大檀主として勸請造立された」と記されております。
 この稲荷神社の横の大きな岩の下には、神社のお使いに走ったと言われる狐のお宿と呼ばれる横穴があります、人間が入ると出られなくなるとの言い伝えもあり、現在は神社から渡り廊下でその洞穴に通じております。
 このお使いの狐は、「樽佐山の稲荷神社」に走っていたとも言われ、途中の小田の道では狐や狸に化かされたとの昔話も残されております。
 稲荷神社のある尾根の先端にある三鬼大権現は、弥山の頂上近くにある三鬼大権現の社と対峙して建てられたと言われ、「天狗の足跡」が残っていると言われる大きな自然の岩の上に乗っかるように建てられております。
 この天狗、毎年の水害と松笠山の山崩れによる災害で悩まされていた小田村のお百姓さん達を、助けてやろうとこの岩に立ったとも言われていて、小田村の人々がその大きな岩をご神体にこの「三鬼大権現」を建立したとも言われております。
 建立の時期については、口田村史によると「目下庫裡(松笠観音)も新築され、三鬼大権現も勸請され、松笠山碑もあり。」と記述され、松笠山碑はその石碑に刻まれている銘文によると大正15年とあり、口田村史には昭和2年(1927年)5月に建設委員沓内瀧太郎氏、山根圓吉氏によって除幕されたと記されております。
 このことからこの「三鬼大権現」のお社も大正時代の終わり頃には、既に松笠山碑を建設した関係者により建立されていたものと推察されます。
 三鬼神大権現の社の前には、「祭神三鬼大権現は、当山の鎮守で時眉追帳摩羅(ジビツイチョウマラ)の三鬼神は大日如来、虚空蔵菩薩、不動明王の化身にして智恵と福徳、降伏の徳を司り大郎坊、次郎坊を初め、日本国中の大小天狗を眷属に随え、神通力を以て衆生の心願を満足せしめ給う威徳広大霊験顕著な神である。」と記された案内板が立てられています。
 

 

 
注 三鬼大権現〔三鬼堂〕は、後の調査で昭和5年(1930年)に建立された
ことが判明しましたが、口田村史の記述との整合性に若干の疑義があります。

 

 
 
A 松笠山碑とそのいわれ
 松笠観音の裏には大きな岩でできた「松笠山碑」がある。この松笠山碑は、当時安佐郡口田村字小田といわれていたころ、年々暴風雨に山崩れを起こし毎年多大な損害を及ぼしたことから、明治39年(1906年)に前村長田中太一郎氏、当時の山野定治村長、石山校長先生などが子孫百年の計を立て、官有林の払い下げをうけてこの林から生じる利益金を災害復旧のための費用にあてたと言われ、この官有林の払い下げを記念して昭和2年(1927年)に石碑が建立されたものです。
 記念碑の除幕には、当時の大蔵大臣、故早速大臣の令嬢も出席されたと言われており、記念碑の碑文は故早速大蔵大臣の自筆によるものであります。
 花崗岩の多いこの松笠山は、度々の豪雨により山崩れが多発していた模様で、大正15年9月13日の松笠山の大山津浪では、犠牲者3名の事故が発生しております。
 
B 戸坂入道々海と安国寺恵瓊
 慶長年代に松笠観音を開祖したと言われる戸坂城主戸坂入道々海は、武田
家の末っ子竹若丸を安国寺に育て、後年の安国寺恵瓊と大成させた功績は大きいと言われている。恵瓊は、銀山城主武田光和の末っ子で、光和の死後その弟伴城主下野守の子信重と叔父武田信実とが光和の跡目をねらって争いを起こした。
 このとき、やっと9才になった竹若丸は戸坂入道々海の手により養育され、父母の菩提を弔うため、防州(山口県)徳山の大浄寺で得座し、京都の東福寺に入り頓蔵王と呼ばれ、瑶甫と名乗り一任斉と号し正慶とも言った。恵瓊はその正式名である。
 戸坂入道々海は、その後武田家の陥落を前に理由不明の切腹を仰せつかり戸坂くるめぎに葬られていると言われ、武田家の跡継ぎをめぐる争いが起因しているのではないだろうか、当時9才の竹若丸を養育したと言われていることと、この自割の時期について必ずしも一致しないことから、詳細については定かではありませんが「松笠山の合戦」など戦国の時代のこの地を知る手がかりになるかも知れません。
 
C 不動院中興の開祖と安国寺恵瓊
 不動院は、45代聖武天皇の天平2年(766年)僧行基が牛田村に来て自ら観音像を彫って七宝の伽藍を創建し「朝日山蓮花王寺」と言った。
 境内は七町四方にして、内には聖明院、九昌院、十輪院、南ノ坊、長寿院、慈隆院常楽院、慈光院、禅教院、杉之坊、寂静院など12個の末院及び五重の塔を造り鎮護国家の道場、治国、治民の祈祷所としたのがはじまりである。
 不動院は、足利氏が安芸安国寺に指定したもので、その後幾多の盛衰を経て、康暦
 
2年(1380年)には京都五山の一つである東福寺の末寺となって景陽山安国寺と称し、慶長5年(1600年)以後は高野山の末寺となった。と記されている。
  その安国寺恵瓊は、戦国の時代の毛利の外交僧として主要な役目を仰せつかってい るが、後に豊臣秀吉に知られるところとなり、秀吉の使いとして朝鮮半島に渡り、ま た関が原の合戦で破れた西軍の石田三成、小西行長と共に徳川家康により処刑されて いる。このことが、松笠観音の開祖とも言われる戸坂入道々海の自割と何か関係があ るのではないかとも考えられる。
 
D 松笠山の合戦跡
 大永7年(1527年)5月から7月にかけて、大内義興の勢は武田・尼子氏の勢力に向かい戸坂や玖村にまで攻め込んだが、松笠山で合戦がおこなわれたのはこの年の5月13日と言われており、享禄元年(1528年)に義興が死去し、攻撃は一時中断され、再び本格的な攻勢を始めたのは、天文8年(1539年)義興の子義隆が広島湾一帯で武田方の佐東川内水軍と戦いと言われており、この戦いは「戸坂合戦」として伝えられ、大勢の武士が参戦していることを知らせるため「多数のわらじで地上を叩いて音をだした」「多数のわらじを川に流した」などの言い伝えもあり、戸坂には「千足」と言う地名も残っております。
 この時の戦は、大内の勢力が東側に武田の勢力を引きつけ、毛利方の勢力が銀山城の西側から攻め入り勝利して、難攻不落の銀山城を攻略し武田の勢力が破れたと伝えられています。
 この松笠山の合戦跡と呼ばれるところに「岸山狐城」なる山城の跡と呼ばれている場所がありますが、おそらくこの山城の跡を中心にこの一帯で戦がおこなわれたのではないかと考えられます。
 また、この松笠山の麓には「伊豫陣原の合戦跡」と呼ばれる場所もあり、地元では伊豫陣と呼んでいて「伊豫の人きてこの地で武田の勢力と戦った。」と言われていますが、何時の頃、誰が戦ったのか記録は残されていません。
 
E 小田岸山狐城と松笠山頂上の城跡
 中小田古墳には現在14基の古墳の所在が確認されていますが、そのなかの第2号墳、第3号墳、第4号墳を中心にしたあたりが「岸山狐城」と呼ばれている山城の跡とも言われております。
 一般に見られる築城による石垣などの構築物などはありませんが、古墳のある場所の東側は深い谷になっており、北側には狭隘な岩場が、南側は切り立った崖があり外
 
敵の侵攻を妨げるための地形や、堀切とも言われる尾根状の狭い通路、山城の境を示す郭などが見られます。
 
F 中小田古墳群
 「卑弥呼の鏡」と呼ばれる銅鏡などが出土し、古代国家形成の過程を知るうえで貴重な史料とされる「中小田古墳群」であるが、広島市域の太田川下流域にある前期古墳としては、口田小学校裏の弘住古墳と並んで、この中小田古墳(第1号墳)はその時代の代表的な存在であります。
 この古墳は、松笠山の北西に延びる標高60〜130mの丘陵尾根上に点々と分布している前方後円墳(第1号墳)、帆立貝式古墳(第4号墳)を含み平成12年度の調査で新しくその存在が確認された第14号墳を含み、14基からなる古墳群で、昭和36年(1961年)に広島大学により第1号墳・第2号墳が調査され、昭和54年(1979年)には広島市教育委員会がこの古墳群の範囲や内容の確認調査を行っており、将来はこの地帯を広島市の古墳公園として整備する計画が策定されているなか、平成8年(1996年)11月には国の史跡に指定されたが、広島市内では頼山陽居室、広島城跡、原爆ドームに続いて4件目の指定で、初の古代遺跡となる。
 国の史跡指定を受けた後、平成10年(1998年)には4号墳、5号墳、6号墳の調査が実施され、さらに平成12年(2000年)にも調査が実施され当初10基の古墳群と見られていたこの遺跡ですが、現在は14基の古墳と貝塚の所在が確認されております。
 この古墳群の中の第1号古墳は、標高97mの丘陵地上にあり全長約30m、後円部の直径は約20mもあり、後円部の中央には竪穴式石室が露出して残っています。 第1号古墳の目印となっていた一本松は、松笠山の下を迂回して走る県道からも見ることができたが、この「将軍の松」と言われていた松の木も現在は残念ながら松くい虫の被害をうけて枯れ、平成14年(2002年)に撤去された。
 この第1号古墳からは、銅鏡「吾作銘三角縁神獣鏡(直径約20p)」、獣帯鏡、車輪石、玉類と短冊、有袋鉄斧など四世紀後半頃とみられる遺物が出土しており、三角縁神獣鏡(正式には三角縁四神獣鏡)は中国の魏の国が邪馬台国の女王・卑弥呼に贈り、これを受け継いだ大和政権が支配下に入った地方豪族に与えたのではないかと考えられており、安芸地方が当時大和政権の勢力圏内であったことを裏付ける史料となるのではないかと期待されています。
 第2号古墳は、第1号古墳の上(南側)にあって直径25mで五世紀前半から中頃のものとみられる鉄製品が多数出土し、広島大学文学部考古学研究室、広島市教育委
 
員会により大切に保管されております。
 平成12年度には、第2号墳の調査が広島市文化財団により行われ、第2号墳の北側に新しく竪穴式の石室のあることが確認され、第14号墳と記録されております。
 
G 卑弥呼(ひみこ)の銅鏡「三角縁四神獣鏡」
 中小田古墳(第1号墳)から出土した「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる銅鏡は、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が、中国の皇帝から手に入れた鏡と言われているもので、この鏡は全国各地の代表的な古墳から見つかっており、近畿地方にあった統一政権が、国づくりに深くかかわった豪族たちに分け与えたと言われている鏡です。
 中小田第1号古墳は、近畿地方などにある有名な巨大古墳に比べて規模は小さいですが、そこに眠る主が「ひろしま」の代表として、有力な豪族と肩を並べるような待遇をうけていた人であると考えられており、この中小田古墳(第1号墳)から出土した「卑弥呼の鏡」と言われる鏡は、古墳時代のひろしまを代表するものとして学術的にも大変重要な手掛かりとなり、近年、奈良県から同種の「三角縁神獣鏡」(中小田古墳から発掘された銅鏡は「吾作銘三角縁四神獣鏡」)と見られる鏡が見つかり、改めて邪馬台国の秘密が解き明かされようとしていますが、その時この中小田古墳の秘密も明らかになることを期待したいものであります。
 日本列島において「国家」と呼ばれる姿がいつ頃、どのようにして誕生したのだろうか未だこの謎は解明されておりません。
 このことについては数多くの人々が研究を重ねていますが、当時の国家と見られる姿には、現在のような日本国という概念とはまったく異なり、また、「古代国家」という概念が人々によって色々な考え方もあるため、日本の古代国家の成立の時期についても諸説があり、その一つに、3世紀頃の「邪馬台国」(やまたいこく)を初代の国家であるとする考え方には、2世紀末の「倭国の乱」(わこくのらん)の収拾の過程において「卑弥呼」(ひみこ)という女王を中心に政治的な纏まりができたことがその考え方の根幹となっているようである。
  その倭国の乱(わこくのらん)について、「その国、もと男子をもって王となし、
住(とど)まること7、80年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である」**これは、卑弥呼の登場について「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に語られている有名な文章です。**
 また、「後漢書」という書物(魏志倭人伝より後に編纂された書物)で「桓・霊の間(後漢の桓帝と霊帝の治世の間の意味で、147年〜188年の間)、倭国大いに
 
乱れ」と書いていて、このことから倭国の乱とは180年頃に勃発したものと考えられていて2世紀末のこととなり、3世紀の半ばに「魏の王朝」によって「倭国王」と認定された「卑弥呼」が、この倭国の乱の収拾のために共立された王である重要な史料とされている。
 
H 平野古墳、平野神社
 平野古墳は、一個の独立したドーム状の整美な形をして横穴式の古墳で、近くの中小田古墳群などに見られる竪穴式の古墳とは異なる形態をし、古墳時代の後期のものと推定されているが、口田村史にも記述されている「鎮守の大椎」の大木に藤の木がまつわり、古墳の北側にはあらかしの大木もあり、古墳の上部の盛り上がった一帯には椿が群生し椿の花の咲く頃にはめじろなど多くの小鳥の姿をみることができます。 口田村史には「鎮守の大椎」(一丈五尺、五間)がこの古墳の上にあって、樹齢二百余年と言われる大きな藤の木があり、その蔦が大蛇のごとく椎の木にまつわり藤の花の咲く頃はみごとであったと記されており、この平野神社については口田村大字小田(平野山)に在り、祭神「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」、祭日9月13日とも記されております。
 この大穴牟遅神は、矢口新宮神社の祭神「大巳貴神命(おおなむちのかみ)」と同じ「神」であり、大国主命と別名であります。
 この平野古墳の石室の入り口には、「郡中国郡志」には、「平野山鎮守祠平野神
社の拝殿があり、古くからこの石室の入り口は開口していたことが伺われるが、建
立の時期などの古い時代の記録がない。」と記されており、現在の拝殿は昭和52年(1977年)9月に建て替えられたものです。
 
I 岩海地蔵堂(いわかいじぞうどう)
 岩海地蔵堂は「和泉山黄幡祠」とも言われ、天保13年(1842年)に幸次と言う人が願主となって建立されたもので、大変古い歴史のある地蔵堂でありますが、現在の建物は、平成元年12月に再建されたものでありますが、その時に屋根裏からこの地蔵堂の建立に関して記述した古い棟札が発見された。
 この岩海の地蔵堂については「仏光堂」との説もあり「ご本尊 地蔵尊を祀る」とあり、願主幸次という人、夢の中で仏様が現れ「きれいな清水の湧くところの下を掘ればお地蔵さまがおられる、そのお地蔵さまを祀ってくれれば願いごとかなえてつかわす。」とお告げがあったとの言い伝えがあり、湧き出る清水で目を洗ったとこら眼病が治ったと言われ、この幸次と言う人が願主となって建立されたとのこと。
 
J 胡磨ケ谷のお稲荷さん
 「胡磨ケ谷のお稲荷さん」は建立の時期・由来などは不明でありますが、郡中国郡志にも掲載されている古いお稲荷さんであります。
 現在の建物は、昭和の終わり頃に建て替えられたものでありますが、岩海の地蔵堂から松笠観音への参拝道を登りはじめて、芸備線の踏み切りを渡ってすぐの左上の山裾にあるため、よく見て歩かないと見落とすことがあります。
 
K 八畳岩の展望台
 松笠観音の裏に建てられている松笠山碑の横をすり抜け、東の方向150メートルほど尾根伝いに歩けば、大きな自然の岩石が積み重なった展望台がある。
 この展望台は、大きな岩が幾重にも積み重なってできたもので、通称「八畳岩展望台」と言われ、眼下に太田川の清流がまぶしく光り、安佐南区祇園あたりまで展望が開け、山陽自動車道の広島インターチェンジとその曲がりくねった高架道や家並みの中をオレンジ色の新交通システム(アストラムライン)が音もなくすべるように走る姿を眺めることができます。
 また、展望台から東に目を向けると木立の合間から二ケ城山、鷹ノ茶山などが見えますが期待するほどの展望はできません、西や北の方角に目を向けると武田家の銀山城跡のある武田山を中心に、八木の阿武山、可部の福王寺山などが展望できましたが近年は展望台周辺の木立が成長してきたため、徐々に視界が狭くなっております。
 
L ふな岩
 松笠山の北側に向けて延びる尾根上に「ふな岩」と呼ばれる船の形をした巨岩があります、ふじらんど東端の中国電力の変電所付近から八畳岩の展望台に向けての登山道の中腹(標高120m)にその大きな船の形をした岩が「ふな岩」と呼ばれている岩ですが、その昔、夜露に濡れたこの巨岩が朝日に眩しく光り、麓からも眺めることができたと言われておりますが、現在は深い木立にかくれて見えなくなり、現地を訪れて見ても、巨岩の全体像は茂みに覆われて眺めることができません。
 僅かに、尖った岩を北に向けて横たわる岩石の一部が船の先端を感じさせ、ふな岩であることが確認できますが、巨岩の端の登山道の東側は深い岩壁となっており転落しないよう注意が必要であります。
 
M 霊験あらたかなラドンを含んだ霊水
 松笠観音はその昔から西日本有数の霊場と言われ、東南の方向に「龍水の池」とい
 
われる清水の湧くところがありました。
 この池は、冬の寒いときにも凍ることがなく弘法大師諸国修行の際、自らこれを堀られたるものと伝えられておりますが、この池も水は枯れていて「護摩道場」として利用されていますが、池のあった場所の近くには新しく井戸が掘られ、天然のラドンを含むこの「井戸の水」を飲めば、霊験もあらたかなるものがあると言れれ、400余病に効くと伝えられ、これまで一度も水枯れしたことがないと言われており、この井戸の裏(南側の上の方)の山頂に通じる登山道沿いには、割れ目のある大きな岩があって一説にはこの割れ目は井戸に通じる水脈とか言われて、このお陰で一度も水が枯れたことがないとのこと、自然に割れたものか、人為的に割ったものか定かではありませんが松笠山の山頂をめぜす方はこの大きな岩を見られることをお勧めしたい。 平成3年の広島県衛生研究所により水質調査では、含有するラドン測定値は66マッヘと測定されています。(温泉基準法によるラドン含有量は、鉱泉基準55マッヘで、療養泉としての基準は825マッヘであります。)
 
N  広島市の天然記念物に指定されている「松笠観音の巨樹群」
 松笠観音の境内にある、スギやヒノキ、アベマキ、モッコクなどの樹齢200年を超える巨木は、昭和59年(1984年)3月に巨木の群生地として広島市の天然記念物に指定されました。
 
     広島市の天然記念物の指定をうけたときに対象となった巨樹
 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

樹の名前

 根廻り周囲

目通り幹廻り

推定樹高

備    考




スギ


 


590m

485m

約 35m

台風で倒れた


410m

345m

約 30m

 


385m

290m

約 30m

 


270m

215m

約 30m

 

 ヒノキ

340m

265m

約 28m

 

アカ

マツ


360m

350m

約 30m

松食い虫で枯れた


235m

200m

約 20m

松食い虫で枯れた

イヌマキ

230m

183m

約 23m

台風で倒れた

アベマキ

305m

310m

約 13m

 

モッコク
 

200m
 

190m
 

約 18m
 


 






















 
   指定された対象木以外にも、境内周辺には巨木が存在しております、その他
  の巨木は次表の通りであります。
 
   (その他、比較的大きな木)・・・指定対象外の巨木・・・
 

 

 

 

 

樹の名前

 根廻り周囲

目通り幹廻り

推定樹高

備    考

ヤマモモ

  − m

197m

約 12m

 

アラカシ

130m

090m

約  −m

 

タブ
 

190m
 

210m
 

約  −m
 


 








 
 
 昔には、この地には大きな杉の木があって「観音大杉」と呼ばれていたが、そのうちの一番大きな杉の木(樹齢300年)は何かの理由で切り倒されて売られた、当時(昭和の始め頃)お金で175円45銭5厘であったと口田村史には記されていますが、その売り払われた大杉と姉妹ともいわれていた残った杉の木も平成3年(1991年)9月の台風によりそばにあった「いぬまき」と一緒に倒れてしまいました。
 この観音大杉と呼ばれていた杉の姉妹樹は、寛文13年(1673年)に第4代藩主浅野綱長が松笠観音の前身である「勝楽寺」建立の際に、松の種を蒔き、苗を自らお手植された木とも言われている杉の木であります。

 

 
注 「勝楽寺」が建立される前には、戸坂城の隠れ城として建てられていた
 と考えられます。

 

 
 この松笠山の巨樹群は、人里離れて松笠観音の聖地として巨樹が地域の皆さんに大切に守られてきたこと、これからも末永く巨樹が大切に守られるなどが高く評価されて、巨樹の群生地とし広島市の天然記念物に指定されたのですが、指定されてから既に10数年という歳月が経過して、そのときには天然記念物の対象となっていなかった樹木も大きく成長して、この巨木の群生地は立派に育っています。
           広島市の天然記念物指定
      松笠観音の巨樹群の配置略図
 
 
 
 
 
                   ↑    
                        イチョウ
                 ヤマモモ                ヤマモミジ
                               カリン
                            イチョウ
 
                本 堂    オガタバ
           モッコク                    庫
 
                                裡
     アラカシ
              梵鐘楼
                 ヒノキ          カンノンオオスギ
                     モッコク スギ     イヌマキ
    参    アベマキ    マツ     スギ  スギ         ミツマタ
   ツ 拝 エノキ                         
   バ 道
   キ     アベマキ    イチョウ                 
 
 

                               

 
                               ↓