中小田古墳のおはなし
中小田古墳群は、平成8年(1996年)に国の史跡として指定されました。
当初は12基の竪穴式の古墳が確認されていました、その後広島市の調査により
新しく1基の古墳が存在することが確認され、現在では13基の古墳が指定の対
象となっております。
1 中小田古墳群が国の史跡に指定されたことについて
私たちのふるさと口田には、この中小田古墳をはじめとして、広島県の史跡に指 定されている「西願寺山墳墓群遺跡」や広島市域では一番大きな遺跡ではないかと 言われている「梨が谷遺跡」、前方後円墳では広島市域最大と言われている「弘住 第1号墳」など弥生時代の後半から古墳時代にかけての遺跡や古墳があります。
中小田古墳は4世紀から6世紀にかけて形成されたものと言われており、西願寺 山墳墓群や梨が谷遺跡などよりは比較的新しい時代のものであります。
しかし、中小田古墳群の第1号墳からは「卑弥呼の鏡」とも言われる「三角縁神 獣鏡」が出土したことから、古代国家の形成の過程を知るうえで、また、当時の広 島の地がどのような姿であったか、大変貴重な史料であるとの理由から国の史跡に 指定されたのであります。
2 卑弥呼の鏡とは
この三角縁神獣鏡は、邪馬台国(やまたいこく)の女王と言われた「卑弥呼(ひ みこ)」が、中国の皇帝から手に入れた鏡と言われていて、同じ鋳型で作られたと 見られる鏡が京都府、大阪府、奈良県、兵庫県と福岡県の代表的な古墳から見つか っており、近畿地方にあった統一政権が「国づくり」に深くかかわった豪族達に分 け与えたものと言われているものであります。
3 邪馬台国とその女王「卑弥呼」について
2世紀の中頃から終わり頃(147年~188年)にかけて、倭の国の豪族たち が戦いをおこしたと古い書物(「魏志倭人伝」)に書かれております。
この魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の記事には「その国、もと男子をもって王と なし、住まる(とどまる)こと7、80年。倭国が乱れ、たがいに攻伐すること歴 年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。」と記述されて いますが、この頃は「倭国の乱」と呼ばれていて、3世紀の半ばに魏の王朝によっ て「倭国王」と認定された卑弥呼がこの動乱を収めたと言われております。
4 墳丘墓と前方後円墳について
倭国の乱の激動のあとにやってくる大きな変化、それは前方後円墳が登場するこ とであります。
この起源についてはいろいろな説があってはっきりしませんが、すでに中国や朝 鮮半島には存在していたとも言われておりますので、大陸からその流れを受け継い でいるものと考えられております。
墳丘墓には、その墳丘部分が円形のもの(円墳)や四角い形のもの(方墳)のほ かに突起のあるものなど、さまざまありますが、墳墓は祖先祭祀のためのものであ り、墳丘の形や埋葬施設の形式には集団の伝統が保守的に維持され、その形式や副 葬品などにより同盟集団とか連帯などの仲間意識の確認などがあります。
また、その墳丘部分の形により前方後円墳、前方後方墳、円墳や方墳などと呼ば れているのでありますが、前方部分や突起の部分は、その墳丘墓に祀られている祖 先の祭祀を営む場所(祭壇)とも見られております。
主要な前方後円墳からは、卑弥呼の鏡とも言われている「三角縁神獣鏡」が出土 していることから、前方後円墳が邪馬台国の女王「卑弥呼」との関係が取り沙汰さ れているところであります。
5 卑弥呼のお墓は「前方後円墳」?
「魏志倭人伝」には「卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩」と書 いてあります。しかし、直径と言う以上は円墳と考えられていて、この「魏志倭人 伝」では前方後円墳とは書いてありませんが、埋葬されている中心部分の円墳の大 きさを書かれていて、前方部分は祭壇であったとも考えられております。
このことから、卑弥呼のお墓は奈良県の「箸墓古墳」(はしはかこふん)と見ら れていますが、邪馬台国がどこにあった?の謎とともに、卑弥呼のお墓がどこであ るか?も古代の謎となっております。
6 口田地区の遺跡や古墳は住宅団地の開発や道路整備で発見される
口田地区には数多くの遺跡や古墳があります。しかし、昭和8年(1933年) に刊行された「口田村史」には松笠観音への参拝道に沿って「山伏塚」「湯釜跡」 などについては書いてあります(本格的な調査はされておりません。)が「古墳」 と言う文字は見当たりません。
また、地元に古くから伝えられている松笠山の「二丁塚」「八丁塚」は、この山 伏塚や湯釜跡のことが語り継がれているものと考えられ、「四丁塚」は中小田古墳
群の第11号墳、第12号墳のことではないかと考えられております。
このようなことから、口田地区の遺跡や古墳は住宅団地の開発や道路の整備など によって、近年になって発見されることが多いのですが、古くから語り継がれてい る「塚」などは遺跡や古墳のある場所と考えてもよさそうです。
また、口田地区の古墳の特徴は円い川石で構築されている例が多いのですが、そ のほか、古墳の上部を木材などで覆っているため、長い歳月により木材が朽ちて陥 没したり、覆いの土砂が流失して石室の一部が目視できるようになりその存在が知 られることが多くあり、中小田古墳の1号墳、2号墳も同様なことから偶然発見さ れ、その後の調査によって「三角縁神獣鏡」や「車輪石」などの貴重な副葬品が出 土しております。
7 中小田古墳群について
松笠山の北西に延びる標高60~130メートルの丘陵尾根上に点々と分布して いる古墳は現在14基の存在が確認されております。
この古墳群はいずれも4世紀後半から6世紀の初頭にかけて形成されたものと見 られておりますが、第2号墳の北小口壁の外側からは弥生時代後期のものと見られ る土壙墓や、第5号墳の東側崖面からは貝塚も見つかっており、この近くには弥生 時代後期の住居址が存在するのではないかとの今後の調査に期待がかけられており ます。
「三角縁神獣鏡」や「車輪石」などが出土、4世紀後半に構築されたと考えれる 第1号墳は南北にのびる尾根上の標高97メートルにあって円丘部の北東には前方 部と見られる緩やか傾斜地があり、前方後円墳と見られていて、埋葬施設は竪穴式 の石室であったことが判明しております。
円丘部の直径は約20メートル、高さ3メートル以上と推定されている第1号墳 でありますが、発見当時から覆い土の流失が著しく全容ははっきりしませんが概ね 全長30メートルの前方後円墳であります。
第2号墳は、時代的には5世紀前半で第1号墳よりは構築の時期は後となります が円墳と見られ、埋葬施設は竪穴式の石室からは鉄剣や衝角付兜(しょうかくつき かぶと)など鉄製品が多数出土していて第1号墳とは趣が異なっております。
また、この2号墳は、最近出没する猪によって石室を形成していた部分が崩され て原形をとどめていません。
この第2号墳、第3号墳、第4号墳が存在する場所は、中世の古戦場の跡とも言 われている場所で、平成12年度の調査により第2号墳の北側に第14号墳が存在
することが判明しました。
この第14号墳を含めた、第2号墳~第4号墳一帯が「岸山狐城」と呼ばれる山 城の跡で、戦国の時代に周防の大内の勢力と安芸の国の武田の勢力が戦ったときの 山城ですが、その山城が構築されたれたときに、周辺の古墳の石室にの石が使用さ れ、原形が崩されていることも分かっております。
平成9年の調査により、5号墳と第6号墳の間に新しく第13号墳の所在が確認 され、中小田古墳群は現時点では13基の古墳群から形成されていることが判明し ておりますが、平成8年からはじまった一連の調査は「史跡整備にともなう遺構状 況調査」と言われ、古墳の所在確認やその規模などの調査をするもので、財団法人 「広島市文化財団」の皆さんにより行われております。
この調査は、古墳の中央と見られる場所を中心に、十字型に深さ30センチメー トル程度の溝を堀り下げ、その施設の大きさなどを調べるもので、本格的な発掘調 査ではありません。
したがって、その調査の過程では埋葬品が見つかることもありますが、今後の本 格的な調査に期待がかけられております。
今回の一連の調査とは別に、昭和54年(1974年)の調査では第1号墳の北 東側約20mのところの第9号墳では、4基の石棺が確認され、その中の一番大き な第1号石棺からはほぼ1体分の人骨も見つかり、第3号石棺からは頭骨、第2号 石棺からは玉類も見つかっております。
第10号墳は、中小田古墳群の北側の入り口から一番下方、標高約60メートル の低位置にありますが、通路となっていて封土の流失が著しく墳形や規模がはっき りしていません、円墳と見られていて埋葬施設は箱式石棺で、その直ぐ北側にも小 型の箱式石棺が存在すると見られています。
中小田貝塚は、第5号墳の東裾の崖面にあって、5m×5mの範囲にシジミ、カ キ、ハマグリなどの貝殻や土器片が散乱し、貝塚の西側の尾根には弥生後期の住居 址が存在する可能性が高いと言われております。
しかし、今回の一連の調査によるとこの場所からは第13号墳の所在が確認され ていることから、今後の詳細な調査が待たれるところであります。
(別 表)
中小田古墳群の調査結果表
( 昭和13年3月現在)
|
区 分 |
墳 形 |
規 模 |
埋葬施設 |
出土遺物 |
第1号
|
前方後円墳
|
m
m
m |
竪穴式石室
|
三角縁神獣鏡
獣帯鏡
車輪石ほか |
第2号
|
円墳
|
m
m |
竪穴式石室
|
素文鏡
甲兜・短
鉄製武器多数 |
第3号 |
円墳 |
m |
竪穴式石室 |
鉄製品(剣・鏃など) |
第4号
|
帆立貝式
古墳? |
m
m |
木棺直葬
|
剣・斧
|
第5号
|
円墳・葺石
|
m
1.5m |
石室?
|
?
|
第6号
|
円墳・葺石
三段築成 |
23m
2. 4m |
石室?
|
?
|
第7号
|
円墳
|
20m
3m |
?
|
?
|
第8号
|
円墳
|
20m
3m |
石室?
|
?
|
第9号
|
円墳
|
5m
|
石棺4基
|
1号石棺から人骨
2号石棺から玉類 |
第10号 |
円墳 |
5m |
石棺2基 |
|
|
|
|
第11号 |
円墳 |
20m |
? |
? |
第12号 |
円墳 |
20m |
? |
? |
第13号
|
方墳
|
1 × 7 m
1.2m |
石棺・木棺
|
?
|
第14号
|
?
|
?
|
?
|
?
|
|
|
注:鏃(やじり)・貝塚は第5号墳の東側て確認されました。